山形県の日本海側に面する庄内地方。海洋資源の豊かな庄内沖には暖流系と寒流系の魚が入り混じって回遊し、年間を通して約200種類にも及ぶ魚介類が水揚げされています。

県が保有する鶴岡市から遊佐町までの南北135.4kmに及ぶ海岸線には14つの漁港がありますが、港としての役割や漁法、輸送保管方法などに違いがあり、それぞれの地域ごとの特色があります。

中でも底曳き網漁で県内随一の水揚げ高を誇り、イカ祭りや漁船クルージング、とれたてお魚夕市などのイベントを年間通して企画したりと、とにかく元気なイメージが強いのが、新潟県との県境に位置する鼠ヶ関漁港。

 今回のやまがたで働く人

五十嵐一彦さん。

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そんな鼠ヶ関に生まれ、庄内浜のすぐ傍で海の恵みを実感しながら育った一彦さんは地元の高校を卒業後、プロのミュージシャンを目指して上京するも、夢をあきらめて地元で就職。その後突然襲われた病気のため退職し、2年間の闘病生活を経て実家の米穀店を継ぎました。

地元の様々な役職を引き受けるうちに地域活動へ対する意識が変わり、地域の活性化や人材育成へ積極的に取り組むようになります。今では出羽商工会鼠ヶ関地区長やあつみ観光協会監事などの多くの役職を担い、地元鼠ヶ関だけでなく庄内の様々な地域活動に参加しています。

地元を離れ、プロのギタリストを夢見た青春時代

新潟県との県境に位置する港町、鼠ヶ関に生まれた一彦さん。地元の小・中学校を卒業し、鶴岡市内の商業高校へ進学します。

現在の穏やかな外見と柔らかな物腰に反し、高校時代はなかなかの不良息子だったそう。家族や地域の繋がりが煩わしく、就職でも何でもいいからとにかく早く地元を出たいと思っていたそうです。

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そしてこの頃から、プロのミュージシャンになることを夢見るようになります。都会と違い音楽に触れる機会がそう多くない環境の中で、一彦さんが音楽に目覚めるのにはどのようなきっかけがあったのでしょうか。

「中学生の頃、受験勉強をしながら聴いていたラジオから流れてきた音楽に、衝撃を受けました。当時フォークが全盛期の頃だったんですが、こんな格好いい音楽があるもんだと驚いて、一気に惹き込まれました。

それからどうしてもギターが弾けるようになりたくて、最初にウクレレを買ってもらいました。高校へ進学後、貯めたお金で先輩から中古のギターを安く譲ってもらい、夢中になって練習しました。進学した千葉の大学では、音楽サークルに入って音楽三昧の日々でした。この頃はクロスオーバーとかフュージョンとかに傾倒していましたね。

プロのミュージシャンに憧れて必死になって夢を追いかける一方で、厳しい現実も目の当たりにしました。Jazzのギタリストでものすごく上手な先輩がいたんですが、そんな人でも演歌のバックバンドをしてなんとか食べているんですね。これでやっていくのは厳しいなぁと、正直感じました。本気でプロを目指さないかと誘われたこともあったんですが、結局は断ってしまいました」。

そこで根性出して踏ん張っていれば、また違ったのかもしれねんどものぉ。そう言って笑う一彦さんですが、当時を振り返る表情はとても生き生きとしていて、充実した青春の日々が伝わってきます。

 

 

地元で就職するも、思いがけない闘病と克服、そして結婚

大学が卒業間近となっても特に就職活動をしていたわけでない一彦さんは、地元企業の熱心なスカウトに半ば流されるようにして庄内へ戻り、自動車の営業職に就きます。その後何度か職を変えた後、知人からの誘いもあって実家から近い旧温海町の商工会の職員となりました。

タイミング良く就くことのできた商工会の仕事でしたが、約5年の勤務の後、突然大病に見舞われます。一彦さんは治療に専念するために商工会を退職。約2年間の闘病生活で病気を克服し、その後は実家の米穀店を継ぎながら社会復帰をしていくことになります。

「ある日献血をしたら、すぐに精密検査をしてくださいと言われてしまいました。自分では特に自覚症状もなく何ともないと思っていたのですが、病院で検査をしたら肝臓の病気であることがわかり、すぐに入院したんですね。それから入退院を繰り返すようになり、本当に体調も悪くなってきてしまい、迷惑をかけないためにも商工会を退職しました」。

最初の病院では一生付き合わなければならない病気だと言われますが、別の病院へ移って診てもらったところ専門的な治療を受ければ治ることがわかり、約2年の闘病生を経て病気を克服します。

病に打ち勝った一彦さんは実家の米穀店を継ぐことになりますが、それからすぐに今度は母親が病気をしてしまいます。これがきっかけで、一彦さんは結婚を意識するようになったそうです。

「何も意味はないんですが、自分は27歳で結婚すると思っていたんです(笑)。でも27歳のときに病気をしてしまったので、結婚に対して消極的になっていました。ところが今度は母が病気になり、これは生きているうちに安心させてあげないといけない、という気持ちになりました。

そんな風に考えているうちに、当時新潟県の隣町にある喫茶店のマスターとバンドを組んでいたんですが、マスターから誘われて鶴岡のJazzライブを観にいったんです。そこで妻となるさつきと出逢い、周りからのお節介もあって、結婚することができました。新婚旅行には日本人があまり行かなそうなところを選んで、大好きなボブ・マーリーの生まれたジャマイカへ行きましたね(笑)」。

病気を見事に克服し、最良のパートナーも得ることができた一彦さん。その後は2人のお子さんも授かっています。こうしたご自身の経験もあり、現在では婚活の支援にも取り組んでいます。

 

やむなく引き受けた役職から、地域活動の楽しさを知る

実家の米穀店を継ぎ、子どもが大きくなるにつれて地域活動へ参加する機会も増えていきました。しかし、最初はそうした場が決して得意なほうではなく、地域の飲み会などを苦痛に思ったこともあったそうです。

一彦さんの意識が変わるきっかけとなったのは、保育園の保護者会の会長を引き受けたことでした。

「ある時ひとつ上の先輩から、保護者会の会長の役を引き受けてほしいと頼まれたんですね。面倒だし、自分では絶対に無理だと言って断わったんですが、それから1週間、その先輩が毎日毎日うちへ通ってきて、絶対お前しかいないから、頼む、と言うんです。さすがに断りきれなくて、最終的に引き受けることにしました。できるかどうかわからないけれど、まずやってみよう、と。

それから保育園の行事へ自分が「長」として参加しなくてはならないとなると、全然意識が違うんですね。色々なことも見えてきます。自分ひとりでは何もできないし、他の保護者たちにお願いしなくてはならないこともたくさんあります。自分が一生懸命にならないと、周りの人もついてきてくれません。

でも自分が一生懸命になって声をかけると、参加してくれるんですよね。そうやって結果が見えることがとても嬉しく思いました。

そうしているうちに、反省会などの飲み会をすごく楽しく感じるようになりました。みんなもイヤイヤやっていたように見えて、とても楽しんでいて。参加するのを面倒くさがる人もたくさんいるけど、結果的に人が集まってみんなで盛り上がると、最高に楽しいんですよね」。

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その後も小学校や中学校のPTA会長、あつみ観光協会の監事、鼠ヶ関地域協議会・蓬莱塾の事務局長、念珠関辨天太鼓創成会の代表など、数々の役職を引き受けます。そうした中で地域の活性化や人材育成などにも積極的に取り組んで、漁師を始め地域住民との絆を深めていきます。

みんなで集まって、一緒になって盛り上がろうぜ。その根源には、音楽で人を楽しませてきた一彦さんならではの地域への愛情があるように感じます。

 

地元にあるものの価値を理解して、人を「繋ぐ」役割を果たす

そんな一彦さんがさらなる刺激を受けることになったのは、他所から来た移住者たちとの出逢いでした。

「ここ数年、他所からほとんど縁のない庄内へ移住してきて、地域のために力を尽くそうと取り組む方にたくさん出逢いました。

Facebookという新しいSNSを活用して、地域を活性化させようとか。庄内の豊かな自然資源を活用して、自然エネルギーの新しい産業を興そうとか。出羽三山の山伏や精進料理の文化の素晴らしさを、改めて伝えていこうとか。

特に東京の有名な企業を辞めてまで移住して、一生懸命に地域活性化へ取り組んでいる方を見て、こんな人がいるのかと驚きました。小説にできるんじゃないかと思うくらいです。

そういう人たちを見ていると、ここで生まれ育った自分も頑張らなくちゃと思います。当たり前のようにそこにあるものの価値をしっかりと理解して、活かしていきたい。過疎化や少子高齢化を嘆いて不満を言うのではなくて、課題を受け止めて取り組んでいきたいです。

特に私が暮らす鼠ヶ関は、海があり、山・川・里もあり。自然は豊かで美味しいものがたくさんあります。こうした資源を上手に活用したら、色々なことができるのではないでしょうか。例えば漁村ツーリズムのプログラムを整備して体験学習を受け入れたり、今までは捨てていた魚や貝殻から肥料をつくったり。他の地域でも活用できるような成功事例を作り上げて、庄内全体を盛り上げていけたらと考えています」。

他所からやってきた人々の力や知恵も借りながら、地元の資源を地元の人々が中心になって活かしていく。こうした取り組みがもっともっと上手に回るようになれば、地域はさらに元気になっていくでしょう。

ここにあるものがどれだけ豊かなものなのか、気づきやすいのは移住者のほうかもしれません。それを築き上げてきたのは地元の方々ですが、両者の間には簡単には超えることのできない壁があるのも事実です。

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両者を繋ぐ重要な役割を果たしているのは、一彦さんのような方だと感じます。

現に一彦さんが繋ぎ役となり、鼠ヶ関のイカやとらふぐを楽しむ会などを移住者の方が企画し、地元の漁師と他所から来た移住者たちが一緒になって楽しんでいる姿も見られるようになりました。

時間をかけて築いた地元の人々との信頼があり、移住者の視点も大切にしながら柔軟なコミュニケーションをとる一彦さん。一彦さんにしか出来ない人を「繋ぐ」役割は、今後ますます多くの方から必要とされることでしょう。

Profile

五十嵐一彦さん

出身 山形県鶴岡市
生年月日 1957年
URL https://www.facebook.com/nezugaseki

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この記事を書いた人

佐野 陽子

1983年生まれ神奈川県出身。 早稲田大学商学部を卒業後、大手損害保険会社に勤務し丸の内OLを経験。 山形の在来作物とそこに関わる人々を描いた一...

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