「根本的には、ぷらっとほーむが目指しているのは”リベラルな環境づくり”であり、”地域づくり”でもあるんです」

 

 今回のやまがたで働く人

滝口克典さん

NPO ぷらっとほーむ 共同代表

1973年生。東根市出身、山形市在住。大学院卒業後、1999年4月より高校の非常勤講師となる。2001年4月より、若者の居場所づくりに取り組むぷらっとほーむ(※以降、ぷらほ)の前身となるフリースペースSORA (不登校の子ども向けのフリースクール)にて活動を始める。2003年4月、現実として目の前にあったニーズに関わるべくSORAからぷらほに移行。松井愛氏とぷらほ共同代表になり、今に至る。活動の傍ら、仕事として大学、予備校の非常勤講師を務めている。

 

ぷらほの存在意義

2003年4月に若者の居場所づくりを目指すぷらほの活動を始めてから、10年の月日が経ちました。
「若者の居場所づくり」と言えば、どうしても”不登校”だとか”引きこもり”といった問題に注目が集まりがちです。だけど私としては、”不登校”だとか”引きこもり”というテーマに焦点を当てて何かをしようと思っているわけではないんです。私の思いとしては、彼らがなぜ不登校とか引きこもりになるかを考えたなら・・、自由な言葉が交わされる空間が山形にはあまりに少ない今にあって、そしてどう彼らを(学校or社会に)戻すかという話にしかならない今にあって、そんな環境が巡りめぐってそういう若者たちを生み出しているという見方もできるんじゃないかと思うんですね。だからこそ、地域で生きる環境として息苦しくない場であり、かつ新しい価値が生まれる場としての存在意義がここにはあるんじゃないか。それがひいては広い意味での”地域づくり”につながっているんじゃないかとは思っています。
ぷらほを運営する上で私が大事にしているテーマは、色んな価値観や思想が等しく共存できるということ。そして、どれが正しいとか間違っているっていうのがあらかじめ決められていなくて、やりとりの中で色んなことが生まれてくるような場所であるということ。とは言え、ぷらほというフリースペースも限定された空間であることは確かでしょう。だけど、例えば世間的なモノサシからすると”異質”だと捉えられる人が、”異質”な価値観や思想を自由闊達に語ったり、抱えている生きづらいとか苦しいとかっていう思いを吐き出したりできる場所としての意味合いはきっとある。だから、来る人にしたら受け容れてもらえるという安心感はあるんじゃないかな。実際ここは、よっぽどのことじゃない限り、基本何を言ったところでひかれないし、逆に面白がってすらもらえる。そういう意味で、ここはリベラルな場所なんですよね。
かく言う自分自身も、教員時代、学校に対して感じている違和感とか納得いかないことをいっぱい抱えていたにも関わらず、それを話す場所がなくて辛い思いをしたんです。そんな中でフリースクールに関わる活動をしている人と知り合って、胸中にわだかまっていたものを話せたことでずいぶん楽になったという原体験が今に生かされているところはあるでしょうね。

私が教員を辞めた理由

ーーー思い返せば、約20年前。山形では中堅クラスの進学校にて過ごした高校時代を経て、色んな高校から人が集まる大学の文学部に入った19歳の春。私を待ち受けていたのは、カルチャーショックでした。というのも、同じ学部で周りにいたのは、文学作品をはじめとしてこれまで色んなものに触れてきていた人ばかり。ひるがえって私はと言えば、受験勉強をひたすらやって地元にある比較的ステータスのある大学に入ったというくらいの感覚しかなかった。だから、そんな風に蓄えをそなえ広い世界を有していた彼らと一緒にいると気後れしたところはありましたよね。だけどそんなことより、色んな面白いものや人、自分が知らなかった世界に触れられることは大きな喜びだったんです。特に同じ専門分野の人が集まる研究室は面白くてねぇ。仲間とタブーなく色んなことを話せるというのは最高でしたよ。振り返ってみれば、色んな場所に顔を出したりというようにつまみ食いをしながら世界を広げるという日々を過ごした大学時代でしたね。
そうやって色んな意味で”大学デビュー”を果たし、充実した時を過ごしていた私の中に新たに生まれてきたのが、”大学時代と相対化して捉えた高校時代”という視点でした。その視点を得た時、気づいたんですよ「こんなに広く、面白い世界が広がっていたのに、当時はあんな狭い世界に閉じ込められて狭いことだけやらされていたんだ」って。高校生の頃は、それしか知らないから疑問を抱くことなく通っていましたけど。
大学在学中、研究の面白さに魅了された私は大学院に進学。歴史学を中心とした研究に多くの時間を費やすこととなりました。だから、研究者になれたらいいなという思いを抱くようになるのも自然な流れだったんです。・・・まぁでも結局は、そういう競争の世界で生きていくのは無理だなと思い、教員という道を選びましたね。実力もなかったですから。そうして私は大学院卒業後、とりあえず世界史を教えられればいいや、適当にやっていこうという感覚を持ったきわめてやる気のない教員となったんです。
ところがいざ現場に入ると、けっこう理不尽なところが目についたんですよね、決して熱血教師というような柄ではなかったにしても。(その学校は、教員として2校目の勤務先。けっこう緩い感じの別の学校で生徒たちと一緒に遊んだりというように楽しくやっていた教員生活1年目を終え、そこで勤め始めたのが2年目の春のこと。)例えば、今話題になっている体罰問題であったり、生徒たちを受験勉強に専念させ、彼らからひたすら考える時間、自由な時間を奪うような教育体制であったり…。まぁ学校はそういう場所なんでしょうけど、そういうシステマティックなところが嫌だったし、自分もその片棒を担がなくちゃいけないのはとても辛かった。遅刻や髪の色、スカートの長さとか自分にとってはどうでもいいことを取り締まらなきゃならないのは非常に辛かった…。そういう視野の狭さというか、旧態依然さみたいなものに嫌気がさした私は間もないうちに「もうこういう世界ではやっていけない。そういう価値を伝える場所にもいたくない」との思いを抱くようになり、結局その年度末で学校を去りました。

 

私を動かしてきたもの

「学校で大切にされる価値とは違う価値を伝えたい」教員として働く傍ら、そんな思いを実現できそうな仕事なり活動を色々と探していた際に、たまたま目に留まったのが「山形でフリースクールを立ち上げる」という内容の新聞記事でした。
その記事を読み終えた私の頭の中で、フリースクールという活動はこう描かれていました。「学校がうんざりしている不登校の人たちが集まって自由な学びを追求し、彼らの親なども加わって学校とは違う新たな教育の形を模索し作り上げる運動だ」と。そんな風に解釈した”フリースクール”は、初めて耳にする言葉だったにも関わらず、語感の良さも手伝って私を強く惹きつけたんですよね。
そしてその出逢いをきっかけとして代表者に連絡をとったことを皮切りに、新たな人生の道としてフリースペースSORAで活動を始めたのが2001年4月、27歳の時のことでしたーーー。
「自分はなぜ、フリースクールという活動に関わっているのか?」当初、”教員”だった私がなかなかそこで受け容れてもらえない中で、自分がこの活動に関わっている意味というか理由探しを始めたんです。その後、自分なりに行き着いた答えが、”学校にいられなかった自分” だった。教員として務めたものの、居心地の悪さや生きづらさゆえに結局1年ともたずにリタイヤした自分だったんです。・・・言ってみれば、それまでの自分はいわゆる”落伍者”なわけですよ。学校の現場に入ったものの、そこでやるべき仕事をできずに辞めて、仮に学校とさして変わらない価値を追い求める塾の世界に入ったら負け犬のままじゃないですか。ただ逃げただけになってしまう。だから、そうじゃない別の価値を担うと口にすることで、負けた自分を上書きしなきゃいけなかった。絶対勝ち目のないゲームだと周りからはずいぶんと言われましたよ。フリースクールにせよフリースペースにせよ山形においては前例がないものだったから「そういうのは東京とか仙台でやるようなものであって、山形では絶対無理だ」って。でも、自分のプライドを保つとか、傷ついたものを癒すために意志を曲げないでいることが自分にとっては必要だったんでしょうね。だからこそ、到底無理だと言われたことに関わって、新しい価値を作り出す側に立つことへの憧れのような感情が芽生えたんでしょうか。・・・そんなことを今振り返ってみれば思いますね。当時、リアルタイムでの私の心境としては、しゃべれる仲間や大人と出逢えて良かったという思いが何より大きかったですから。
とは言え、現実にはまだ口で言っているだけ。やり始めたはいいけれど、それが後々どう転がっていくかはわからない…。今でこそこうしてのほほんとやってはいるけれど、SORA時代やぷらほ時代序盤までは、やっぱり大変っちゃ大変でしたね。教員の時に味わった辛さは私の中からすっかり姿を消していたけれど、NPO活動に対する社会的評価の低さというか理解してもらえない大変さみたいなものはありましたから。だからかどうか、自分としてはそれなりに楽しくやっているんだけど、知らぬ間に体にガタが来ていて、突然腰痛で動けなくなったり、顎関節症になったりというのが定期的に襲ってきていたんです。無意識のうちにストレスが溜まっていたのかもしれませんね、今思えば。
ぷらほとして活動を始めてから2、3年が経つと、当初味わっていた新鮮さから来る楽しさは薄れ、マンネリ化によるつまらなさが私の中で顔をのぞかせるようになりました。自分が作ろうとしたものと実際に出来上がったものがかけ離れていたのというのもきっとその原因の一つ。だけど、乗りかかった船だからやるしかない。もし自分がここで辞めてしまったら、やっぱり山形ではそういう試みはダメだったという前提が出来上がってしまう。そう言わせたくないし、前提が出来てしまえば次の芽が出るまでにまた時間がかかるからつぶしちゃいかんな、と。そういう思いが当時の私を支えていたのかもしれません。

 

私が目指しているもの 

やっぱり、これだけ生き方とかライフスタイルが多様化している現代社会に生きる上で、色んな立場の人がフラットに話せる場で話し合って合意を形成していくことの必要性は大きいと思うんです。にも関わらず、未だに旧態依然さを誇っているものがあることとか、下駄をはかされている状態で根拠のない正しさを振りかざしているような人がいる状況に対して納得がいかないというか教員時代に抱いたものと相通ずる憤りを感じるところはありますね。だから、本音を言えば、そんなにポジティブに動いていないところはあるんですよ。まぁ、それが一つの大きな原動力になっていることは間違いないでしょうけど。私が今の道に進むにあたって「絶対辞めた方がいい」とか「成功しない」と言った連中を見返してやるぞというような思いも心のどこかにはありますから。
一方で前向きなことを言えば、今ここで直面している「地域の息苦しさという壁にどう風穴を開けていくか?」という問いは、おそらくどこの地方・地域も共通して抱えているものだと思うんです。その解決策の一つとして、うちのような手法を他の地方・地域でも適応させていくという一つの流れを作りたいというのはあるんですよ。要は、社会課題解決の一つのモデルケースになることを目指してはいますね。ある意味、NPOっていうのはそういう社会の歪みみたいなものに対する異議申し立ての場所でしょうから。
そんな今、ぷらほの目指すところとしては、ここに来る若者たちが不安とかを抱えずに自分がやりたいことや目指しているものに向けてやれている状態ができるだけ長く続くようにはしたいんです。ここに来て、水を得た魚のように今まで持っていなかった何かを得て、つながれていなかったものとつながれてそれぞれの道を歩み始められるなら、それが一番いい。まぁそれを価値として測るのは難しいでしょうけど。そういう中で私たちができるのは彼らが以前よりマシな状況にたどり着くための支援というか橋渡し役というかなぁ。マラソンで例えるなら・・、私たちはみんなそれぞれのルートを走っているんですよ。どういうコースが私たちに用意されているのかはわからないマラソンルート、要するに人生という道を。そんな中でたまたまショートカットの仕方とか給水ポイントとかをいくつか知っている私たちが彼らにできるのは、給水ポイントのありかを教えることや一緒に走ることくらい。「窮屈な社会において自分を殺さなきゃならないって嫌だよね。」そういう思いはぷらほに来る若者たちと共有できるところはあるでしょうから。その給水ポイントの一つとして在ることが、フリースペースとして目指すところなのかなと思っています。

変わらない思い

振り返ってみてやっぱり、大学にいたあの6年間がなければ、あのリベラルな空気がなければ、間違いなく今の自分はなかったし、この活動をすることもなかった。自分という人間の骨格や基本的な思考を形作ってくれた場所であり、自分史上最高の原体験を得た場所でしたから。
実は、最近まで社会人枠で再び大学に通っていたんです。なぜなら、もう一度勉強をしたかったから・・・という思いの向こう側には、ぷらほの活動がマンネリ化していたことによる外に出たいという動機づけはありました。そんな思いを発端に、色々考えた末に出てきた結論が「もう一度大学という場所に行って、大学の空気を吸いたい」というものだったんです。かつて経験した大学の研究室のように、色んな価値観の人が同じ場所にいて自由な議論を交わし、結果として新しいものを作っていけるような場所に身を置きたいという思いが私の中で大きな存在感を示していましたから。そうして再び大学の門をくぐったのが、2006年のこと。いざ通い始めると、やっぱり面白くてねぇ。自分が常識だと思っていたことが全然常識でも何でもないんだと気づける、つまり思い込みを崩される場所であり、色んな視点と出逢える場所であり。おかげでぷらほをそんな場所にしたいという思いが再び湧き上がってきましたから。過去を辿れば、それはきっと他ならぬ教員時代の私が欲していたものであり、望んでいたことだったのかなと今になって思いますけど。
そんなに欲していたのなら、ここで格闘していないでさっさと都会に出て行ってもよかったんです。実際、心のどこかに都会に出たいという憧れのような感情はあったと思います。でも、長男は出てはならないという規範の下にその思いは封じ込められました。そんな状況にあって、私に残されていた選択肢はここでリベラルな場所を作ることだけだった。それしか自分がまともに呼吸する方法はないなと思いましたから。だから今は、自分が信じていないことを生徒たちに言わなきゃいけない苦しさを抱えていた教員時代とは違って、自分の気持ちに嘘をつかないで生きられていますね。
ぷらほとして活動し始めて以来10年ーー。恒常的に安定したお金が入ってこないという状況の下、その時どきで出てきた課題に向き合ってきたら今の形になりこれからも形を変えてゆくであろうぷらほにあって、私の中で唯一変わらないものは「リベラルな場所にしたい」という思いなんですよ。歳を重ねてもそういう場所を持ち続けながら生きていける人生こそ”豊かな生”だと思いますしね。やっぱり私の心には”大学の研究室”という残像がそれだけ強く刻み込まれているのかもしれません。

 

[編集後記]
人が憤りを感じるところとは、裏を返せばその人が譲れないところなのだろう。滝口さんの言葉には、”きれいごと”の”き”の字も見当たらないがゆえの力強さがあった。

Profile

滝口克典さん

出身 山形県東根市
生年月日 1973.10.15
URL http://www11.plala.or.jp/plathome/

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この記事を書いた人

中道 達也

1987年生。高校卒業後、大学進学のため東京へ。大学時代、勉強をやる意義を全く見いだせず、留年。大学生活5年目の秋、旅をしたアジア(インドネ...

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