今、山形県出身で県外で働いている人がいたら、質問です。
ふるさとの田舎へ戻ることは、負けですか?かっこ悪いですか?
東京や都会で働くことがステータスですか?

今回は華やかなテレビ業界から一転、地元鶴岡に8年ぶりにUターンをした筆者が、地元を離れて山形で働くことに真剣に向き合ったUターン転職記です。

 

今回のやまがたで働く人

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阿部奈津美(あべ なつみ)

1992年鶴岡市羽黒町生まれ。高校時代までを地元で過ごし、大学進学のため上京。大学在学中はプロ球団、ローカル局、新聞社でのインターンを経て、東京と山形で就職活動ののち2015年に都内の映像制作会社に就職。都内のテレビ局にて番組制作に4年携わり、2019年に地元のウエディング企業へ転職。
 

山形は好き。けれど憧れの東京・業界で仕事したい!

根っからのテレビっ子で、憧れの東京・華やかなマスコミ業界で働くことを夢見ていた私は、専門分野が学べる大学を選んで上京しました。在学中は大学で撮影のアルバイトをしながら、新聞社で学生記者をし、マスコミ業界一色のような大学生活を送っていました。
就職活動は都内テレビ局や映像制作会社、ラジオ局、新聞社などマスコミ業界1本。(今でもリスキーなことをしたと思います。)しかし、地元を離れたことで地元に対する考えかたが変わり始め、
山形に戻りたい気持ちも大きくなっていました。

東京で働くか、山形で働くか。

就職活動どまんなかのタイミングで悩み始め急遽進路を変更し、山形県内のテレビ局も志望。東京と山形を毎週のように新幹線で往復する日々。結果は都内映像制作会社とのご縁をいただきました。
憧れの東京で働くことができる嬉しさと、やっぱり山形に戻りたかったという少し後ろめたい気持ちの中、社会人生活をスタートしました。
私の仕事は、番組制作上でのアシスタント業務をする、ADでした。ドキュメンタリー、バラエティ、オリンピック、多くのジャンルの番組制作を経験し、東京でなければ絶対にできなかったことを肌で感じられる刺激的な毎日でした。
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ここで何度も朝を迎えた、ある日の仕事場の写真。
嫌になった時は窓から空を見上げていつも気持ちを入れ直していました!

 

テレビ局の忙しさは異常 それでも“いつか”のために山形とのコネクション作り

忙しいことで有名な、テレビ業界。例えば、トイレで寝落ちてしまったり、3日連続徹夜、真夜中の渋谷のスクランブル交差点で取材…入社したての頃は休日さえあればベッドに倒れこみ、起きたらもう外は真っ暗!なんて生活が当たり前。正直、プライベートな時間も心の余裕もあまりありませんでした。
そんな日常でも、東京にいながら山形とのつながりをどこかで持っておきたいと思い、出会ったのが、「ヤマガタ未来ラボ」でした。「東京 山形 Uターン」なんとなく思いついたワードで検索し、偶然ホームページを見つけました。東京でイベント(ヤマガタユアターンサミット)が開催されていることを知り、年に1度毎年参加していました。明確なものは何も持たずに、山形で様々なワークスタイルを送る人、Uターン経験のある人のお話をひたすら聞きながら交流をし、自分の答えを探りに行っていました。山形への転職のアドバイスをくださった方との出会いも、まさにこの場でした。
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参加者は個性派が多い、ヤマガタユアターンサミット。この場が無ければ今の私は無かったと思います。

 

20代も気づけば後半。変わり始める周りの友人、焦り始める自分

社会人5年目を迎えようとした頃に「この先ずっと忙しさを言い訳にダラダラ転職活動を先送りしているうちに、山形に戻れなくなるのではないか」と急に焦り始めました。焦り始めたもう一つのきっかけは、地元の友人の環境の変化でした。結婚や出産ラッシュ(田舎はやっぱり早い…)、中には海外へ行ったり仕事を変え新しい人生をスタートさせた友人もいました。
「私だけなぜこんなに毎日切羽詰まっているんだろう。今の自分、前より楽しめていないな」大好きだった東京での仕事や生活に疑問を持ち始めてしまいました。モヤモヤしながら通勤電車の中で何度も読んだ、Uターン経験者の体験記事。その時すでに、「絶対にマスコミ業界での仕事でなければいけない」という固執した考え方を1回捨て素直になってみようと、違う業種への転職に踏み出す勇気をもらいました。
思い立ったが吉日、ユアターンサミットで知り合った方に相談しながら、転職活動に本腰を入れ約1ヶ月で志望していた地元ウエディング業界へ内定をいただきました。
なぜウエディング業界にしたのかというと、友人たちの結婚がきっかけでした。披露宴へ出席する機会が増え、サプライズで動画を作成したり、企画を考えたりしているうちに、前職のスキルが活かせるのではないかと繋がりが見えたからでした。意外に答えは身近なところに落ちているものです。

 

「まるで逃げ帰るみたいだね」何気ない先輩の一言 転職は本当に今だったのか?

転職先から内定をいただいた頃は、ADとして5年目を迎える目前で、そろそろディレクターとしての業務も少しずつ任されるようになっていた時期でした。その他にも退職前の引き継ぎ業務もあり、引越し準備や転職先の企業との入社日調整などで、自分自身焦っていました。そんな時、職場の先輩に「そんなに焦って、逃げ帰るみたいだね」と笑いながら言われた一言。先輩は言ったことすら覚えてないと思いますが、私はあの時の場面をいまだに忘れられません。
「東京から田舎に帰る=負け」というマイナスなイメージが世間的にはあるのかもしれません。本当に転職は今でよかったのか?間違っていたのか?地元に戻れる嬉しさがある中で、葛藤もありました。それでも、どこか自分の中で“踏み出す期限”を決めて、折り合いをつけていかないと、いつまでたっても次のステップに進めないと思い決心しました。

 

地元企業入社後は“よそ者感”でいっぱい

退職を目前に職場で年を越し、最後の最後まで仕事漬けでした。有休消化で1ヶ月の休暇を利用して無事、2019年1月に鶴岡市へ戻りました。そこからは車での生活、慣れない雪道運転、街の雰囲気もすっかり変わった鶴岡市内…18歳の記憶で止まっている地元での生活に馴染むために必死でした。
入社後、研修の配属先では高卒の年下の方ばかり。年齢も違えば、生きてきた経験や価値観も違うのが当たり前で、話すきっかけもありませんでした。私は今でも若干、浮いていると思います(笑)職場で飛び交う早口の庄内弁にもなかなか慣れず、軽くカルチャーショックを受けました。しばらく留守にしていた地元での生活は異国のような感じでした。
今はまだ研修段階ですが、志望するプランナーになるために、休日は外に出て地元の人との交流をはかり、企画の種となるようなことにアンテナを張りながら、地元での生活に食らいついています。
良くも悪くも地元は狭く知り合いだらけですが、1人の人を通して仕事につながることもあります。私は東京の荒波に揉まれたことで運良く培った対人力とコミュニケーション力で人と接することに対し全く苦を感じないので、この地元社会での人間関係形成に今では楽しさを見出せています。今、地元に帰ってきたことに一片の悔いもありません。

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引っ越しトラックから見た、8年過ごした東京へ、お別れの1枚。

 

山形に仕事が無いのではない。知る手段を、知らないだけかもしれない

私が地元に戻ってきてからよく耳にするようになったこと、それは「山形にはできる仕事が少ない」ということ。思えば東京にいた頃、同じく上京した友人に会うと「山形には仕事が無いから戻れないよね」とよく話をしていました。一方で地元に戻ると「他に仕事が無いから賃金も低くても仕方ない」と、一足先にUターンをしていた友人の声。
そういえば、東京でも山形でも全く同じようなことを聞いている気がしました。どのように転職を相談できる人を見つけられたのか、仕事を探すことができたのか、聞かれたこともありました。確かに都心部と比べると職種数や賃金、待遇に差はありますが、無いと決めつける前にまずは「これでなければならない」という職種への固執を捨て、見方を変えるだけで山形で自分ができること、やれることが出てきます。いきなりハローワークに行ったり、教科書のように求職情報を見ても、ぴったりの仕事は出てきません。私がヤマガタ未来ラボに出会ったように、このような場が進路を考える一つのきっかけになり、そこから各々の答えが見つかっていく、せめて山形がそんな“モラトリアム”が許される場所であってほしいと思います。 

山形が好きだけど、どうしよう、モヤモヤしているあなた。
4月からの新生活をスタートしたあなたに、届いてほしいです。
こんな私でも、地元に帰ってこれました。
山形で自分にできること、一緒に見つけましょう。

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