進化を続ける、山形の老舗和菓子店。
文政年間に暖簾を揚げて以来、地元山形を拠点に代々に渡って和菓子づくりを続ける『佐藤屋』は、主に山形市近郊のお住まいの方にとって、とても馴染み深い和菓子店。
お菓子『乃し梅』は、全国津々浦々まで知られる看板商品です。
8、90年代に山形で流れた、“乃し梅は〜佐藤屋で、どうぞ♪”のローカルCMは、その昭和歌謡を思わせる艶っぽいメロディーラインとともに、筆者の脳裏に強烈なイメージとして焼きついています。
とにかく佐藤屋は、190年という長い歴史を持ち、山形県では有数の老舗菓子舗なのです。
ですので、仮にお店のキャッチコピーをつくるとなれば、“伝統の技”や“変わらぬ味”などの文句が連想されるでしょう。
きっとそれは、あながち間違いでもありません。
しかし、近年に入り『佐藤屋』には、そんな薄っぺらなコピーではカバーしきれない、爆発的な個性が息づいているのです。
その個性の源こそが、同店の八代目である和菓子職人・佐藤慎太郎(以下:慎太郎さん)なのです。
生チョコに看板菓子であるのし梅を合わせた『たまゆら』や、蜜漬けした皮付きレモンを、洋酒を加えた羊羹に浮かべた『りぶれ』など、慎太郎さんはこれまでの和菓子になかった斬新な発想で、いつも巷をざわつかせています。
直近では、のし梅入りのレターセット『乃し梅〜る』を発表するなど、その勢いは止まるところを知りません。
夢が“家業を継がない”ことだった少年時代。
そんな慎太郎さんですが、若き日は家業を継ごうなんて微塵にも考えていませんでした。
むしろ、物心が着いた頃からいつも自分に付いてくる“佐藤屋”という存在が、嫌で嫌でしょうがなかった、子どもながらに長男として生まれた自分の、後継者という立場も嫌だったそう。
「学校では“佐藤屋”と呼ばれ、家に変えれば“坊(ぼん=おぼっちゃまの意)”と呼ばれて。
学生の頃は陸上してて、それなりに頑張っていたんだけど、周りからの反応は『佐藤屋の長男って早いんだ』って。
“俺、慎太郎っていう名前あるんだけど”って、いつも思いました。
良いスパイク履いていると、『佐藤屋だもんねー』ってまた言われるから、量販店で一番安いスパイクを探しました。
それを全国大会に履いていったら、案の定笑われましたけどね(笑)。
当時の僕は、佐藤屋っていう呪縛に囚われていたんです」。
家業から逃れたい一心で、大学進学の地に選んだのは鳥取県。
できるだけ、遠く離れることで、慎太郎さんは大学進学までの18年間苦しんだ佐藤屋から逃れ、安息の日々を送ったそうです。
「そろそろ大学卒業ってときに、弟2人と「将来について決めなきゃ」と兄弟三人で集まりました。 佐藤家京都会談(笑)
そこで、将来の夢をいきいきと語る弟たちの姿を見て、『やっぱり、俺が継ごう』ってなったんです」。
おそらくは、そのとき慎太郎さんにかけられた呪縛である佐藤屋は消え、佐藤屋は後世に残すべき対象、そして和菓子はやるべき仕事に姿を変えたのです。
『陸上と同じです。いかに一瞬で、圧倒的に超えるかが重要』
それからときは数年経ち、修行先の京都から、慎太郎さんは佐藤屋に戻ってきました。
でも、帰ってきたのは、和菓子づくりは1年しか経験したことのない、まるで素人の後継でした。
周囲の職人達は、期待はずれとばかりに落胆し、なかには慎太郎さんの技術のなさを、日々仕事を通して執拗に攻めてくる場面もあったと聞きます。
「あのときは、今までの人生で一番練習しました。
栗太郎という饅頭づくりは、一生の思い出。
熟練の職人VS自分の、厳しい戦いでした。
なんとか1ヶ月で挽回し、3ヶ月で完全に追い抜きました。
“栗太郎の乱”は、振り返るたびに自分を成長させてくれた戦いであり、あのとき頑張れて良かったと思います」。
工場が消灯した後も、慎太郎さんは体力が続く限り饅頭づくりの練習に励んだそうです。
「短期間で相当量の練習をすれば、失敗の経験も蓄積される。
なぜ、失敗したのか、またその対処法も自ずと見えてきます。
10年スパンでの緩やかな失敗よりも、短期間で味わったその記憶は重く、鮮烈。
その新鮮な失敗の記憶の積み重ねが、菓子づくりの近道になったのかと思います」。
京都の師匠の和菓子に惚れ込み、弟子入りした5年間。
はじめの3年半は配達係りとして、京の都を縦横無尽に走り尽くしました。
最後の一年半は工場に入り、現場の仕事に触れました。
製造として働けたのは、たった一年だけ。
しかし、振り返ればむしろ3年半の営業職こそが、一番の学びになったと慎太郎さんは続けます。
「お客様のところを回っていると、お客様の顔を知れる。
その人が何を望んで、どんな器でどんなお菓子を提供したいのかもわかってくる。
親しくなった頃には、「今度は◯◯な菓子を頼みたいわ」、「この器に映えるような、◯◯な菓子がいい」と、それぞれに違うお菓子に求めるベクトルが知れる。
技術は、ひとりでも頑張れば身に付くもの。
でも、考える姿勢は、誰か相手がいなければ、お客様がいなければ身につかない。
仕事はできて当然。
京都時代は、それ以上のことを学べたから、今の自分があるのだと思うのです」。
お店にやってきた、かつての同僚。
▲京都時代、同じ師匠のもとで働いていた鈴木さん。現在慎太郎さんとともに、佐藤屋の和菓子を作っています
慎太郎さんは、役職が「常務取締役」ですが、職場の風通しをよくするために、みんなに自分のことを常務とは呼ばせず自分のことを名前(呼び捨て)で呼ばせたそうです。
『慎太郎、準備はいいが?』、『慎太郎、焼き色はこだなものがな?』。
職人同士で打ち解けるには、そんなに時間はかかりませんでした。
その後は、自分が思うがままに、お菓子づくりに励みました。
それはまるで一般的な和菓子屋というよりは、なにかを模索するラボのよう。
ちょうどそんなとき、慎太郎さんの働きぶりを、遠く京都から見つめる人物がいたのです。
それが、かつての同僚・鈴木さんです。
「いつか一緒に働きたいと考えていました。
しかし、同門からの引き抜きはご法度。
だから師匠のお店を辞め、正式なかたちで佐藤屋に入社しました」。
その理由は?
「慎太郎と仕事をしたら、楽しいに違いないとずっと思っていました」。
半人前として、山形県へIターン。
少しずつですが成長し、その都度仲間が増えていった。
慎太郎さんの生き様は、まるでロールプレイングゲームのようです。
仕事を楽しむうちに、自然と改善された労働環境
また、慎太郎さんが来てから、佐藤屋に流れる社風も、徐々に変化していきました。
それは例えるならば、職人の仕事場から部活動への変化のようなものでした。
社員も慎太郎さんも、お互いになんでも言い合える関係性を築いていたから、労働環境の改善にも、すぐに着手できたそうです。
「自分が子どもの頃は、早朝から夜まで職人さん達が働いていました。
でも、結婚し、子どもが生まれて〜ってなったら、そのための時間も必要ですよね。
社員のみんなにも生活を大事にして欲しいから、『時間とお金どっちをとる』?って聞き、就労時間を短縮しました。
みんな満足してくれているみたい」。
また、なんでも言い合える関係性は、仕事をする上で、また別の効果を上げたそうです。
「以前は、人は人、自分は自分って雰囲気がありました。
でも今は何も言わなくても、作業を手伝ってくれます
ときには、『こんなお菓子どうですか?』と、新しいものが生まれたりします」。
つまり、社員全員がそれぞれの意思で、お菓子を、佐藤屋をもっと良くしようと動いているのです。
そこに強制的なものがあれば、会社全体を覆うストレスとなるでしょう。
でも、佐藤屋では、それらすべてが極自然な流れで行われているのです。
こうなった企業は強い。
経営者達は、社員に働いてもらうために、日々いろんなことを考えています。
でも、慎太郎さんは考える前に動き、その動きが周囲を、社風を変えていったのです。
原動力はサプライズ。
ところで、京都の師匠は、サプライズを一番大事にする方だったそうです。
そして、お客様が喜べば、『よっしゃ、やったでー』とガッツポーズをするような人。
慎太郎さんは、そんな師匠の心意気を、真摯に継いだのだと思います。
「営業で培ったのは、お客様が求める菓子を考える力です。
いざ求められたとき、それ以上の和菓子を提案するのが私の仕事。
それはとても大事なことで、私たち和菓子職人にとっての命題です。
『和菓子って、いいよね!』
次の世代の皆さんから、憧れられる存在になれるよう、もっと和菓子をおもしろくしたいですよ」。
まだ見ぬ和菓子の未来に向けて、慎太郎さんの挑戦は続きます。
編集後記として。
▲野外出店に行列が出来た時には、遊び心満載の和菓子ストラップを並んでいる人みんなにプレゼントします
今回の取材を通じて、慎太郎さんの生き様を垣間見たような気がします。
そしてその姿は、ときに和菓子職人として、またときにある種のパフォーマーのように感じられました。
“ただ身近に和菓子があっただけで、きっと和菓子の仕事に就いてなくても、慎太郎さんは変わらず人生を楽しんでいるはず”だと思いました。
「お客様の想像以上のお菓子をつくって、ワッと驚かせる瞬間が大好き。
家を継いで、この仕事に就いて思うのは、和菓子ってむちゃくちゃ楽しいってこと。
ずっと、この仕事を楽しんでいきたいですね」。
慎太郎さんの自由な和菓子と経営スタイルに、共感する人が集まっています。
『佐藤屋』は、これからどのように進化していくのでしょうか。
これからのご活躍が楽しみでなりません。
※この記事は、平成29年度「東北地域中小企業・小規模事業者人材確保・定着支援等事業」として作成しました。