月山の麓に位置する宿「月山ポレポレファーム」オーナー。

今から30年以上前。当時は畑や沼以外何もなかった弓張平の地で、僕はこの宿を始めました―――。

Profile
1951年生まれ。西川町海味出身。息子は、Ver.15 奥山昇。東京の大学在学中、学業はそっちのけで日本と世界を旅する。卒業後、札幌での2年間のサラリーマン生活を経て、同じく札幌にて旅行代理店を始め、約2年間営業。その後、相棒にその事業を委ねて、西川町に戻ってくる。2~3年の準備期間を経て、1980年に当宿を開業し、今に至る。

 

若かりし頃の僕

あれは、僕が大学生の頃―――。学生運動が盛んだった1970年代前半当時の社会に広がっていたのは、左翼思想ではないにしても、既存の概念や社会に対して反発するという風潮でした。だから、新しい文化や生き方のようなものを模索していた人たちが多かったんですよね。僕は、そういうのを傍観しているタイプだったんですけど。それでも、みんな結局は社会に取り込まれてしまうというか、ほとんどの人は大きい小さいを問わず会社に入って上昇するのが当たり前の時代だった。
 そんな世の中の流れに違和感を感じていた僕には、「そんな風に、みんながサラリーマンになったり、役所に入ったりしてどうするんだ」っていうようなどこかひねくれた思想があったんです。既成の概念や社会に対する反発とか違和感のようなものは高校生くらいの時から感じていたんですよ。
 だけど、そんなことよりも、はるかに大きな僕の原動力となっていた「自分で何かをしたい、見つけたい」との思いは、僕を旅へと向かわせました。「自分の目で確かめないと、知ったことにはならない」との考えもありましたしね。まずは日本全国を周り、それから外国にも足を伸ばしているうちにさらにそういう意識付けが強まってきた僕は、旅に出るために大学を1年間休学。「旅に出て、戻って来て、ろくに学校も行かずにアルバイトでお金を貯めて、また旅に出る」そんな繰り返しの5年間でしたね、僕の大学生活は。
 大学を卒業してから、一応2年間のサラリーマン生活は経験したんですよ、レジャー用品を取り扱っている一部上場企業で。世の中を見てみたいというのもありましたしね。だけど、そういう気持ちで会社に入っていた僕は、おおまかな仕組みのようなものがわかればいいやという感じで醒めていました。仕事は面白かったけれど、人生をかけるほどではなかったんですよね。

 

僕の生き方

 そんな学生時代に行った海外への旅の最中にリゾート地で出逢った欧米の若者たちは、生き方のヒントを僕にくれました。 「仕事は遊ぶためにするもの」という文化の下で育ち、自らも遊ぶために仕事をしているように僕には感じられた彼ら。日本人の若者とは全然違う人生の作り方をしている彼ら。そんな彼らとの出逢いを通じて、「自分の生活は勤めたら作れない。自分で作っていくしかない」との思いが僕の中に芽生えてきたんですよね。
 この宿にしてみても、その思いを形にしたものなんです。というのも、当初はデコボコの畑や沼地しかなかったここに、芝生を敷き詰め、裏の林から運んできた木を植えるという過程を経てできたものだから。今のこの風景も、1年や2年では作れない。10年経てばやっと形になるようなもの。だけど、10年を過ぎてからの木の成長力というのはすばらしい。完全に人の手を離れますね、風景を作る力は。
 ちなみに、この宿の建物の形態は、日本では珍しいものだと思うんですけど、設計士の友達と行ったニュージーランドのペンションを参考にして、彼と相談しながら設計してもらったんですよね。
 まぁそういうことをしたいから、この仕事をしたんですけどね。要するに、何もない状態、ゼロから物事を作り上げるということが僕にとっては面白いんです。だから、商売は半分で、あと半分は趣味のようなもの。宿を大きくしようという気はないですし。言ってみれば、「生活の中に仕事を組み込む」というライフスタイルを若い時にデザインしたんですよね。
 だけど、そんな風に「自分で自分の道を作る」という生き方が染みついてしまうと、働きに行くことができなくなるというか、する必要がなくなりますよね。もちろん、すぐにうまくいくわけではないし、かなり辛抱もしないといけないけれど。
 だから、「町をあげて何かやって盛り上げよう!」っていうやり方に違和感があるのかもしれません。やっぱり、自分の仕事の成果を集団行動で求めることは非効率だし、思い通りにならないのが大きなデメリット。それよりは、独自でプランニングする方が効率的だし、自分の描いている理想に近づけるということに途中で気づいたんですよ。

僕の性分

どうやら「宿をやりたい」という夢は、漠然とした形ながらも小さい頃からあったようです。小、中学校の同級生は、「小、中学校の頃に言っていたことを実現した奴は、なかなかいねぇぞ」と言いますから。僕は全然覚えていないんですけどね。
 覚えているのは、小さい頃スキーが好きで、スキー雑誌をよく見ていたってこと。その雑誌に掲載されていた、当時すごく有名だったオーストリアのチロル地方のスキー場の写真を部屋の中で望遠鏡で見て夢を膨らましていました。(笑)そうすると本物みたいに見えたんですよ。実際、大学に入ってそこに行きましたから。やっぱり、日本のスキー場とはスケールも全然違って、衝撃的でしたね。 
 きっと好奇心が強かったんでしょうね、幼い頃から。当時の西川町は今よりももっと田舎だったから、「外の世界を知りたい、見てみたい」との強い好奇心を抑えきれなかった高校生の頃にはヒッチハイクで東京に行っていましたね。
 大学に入って東京で暮らすようになっても好奇心は膨らんでいくばかり。「もっと面白い世界を見てみたい」という思いと共に、日本や外国を旅するようになったんですね。外国は、先進国、発展途上国問わず色々行っていたんですけど、自分の好みというか、旅として面白かったのは発展途上国の方でしょうか。
 ・・・まぁでも、つくづく思うのは、旅は人に肥やしを与えてくれるということ。人の痛みや、世界の中での日本人の立ち位置なども、旅は実感として僕にわからせてくれました。

僕の下積み時代

札幌でのサラリーマン生活を2年でリタイアした後、旅をしていた時に知り合った友達に航空券の販売を手伝って欲しいと頼まれ、見習いのような形で半年間その仕事をやりました。やっているうちに「これは自分で出来るな」と感じた僕は、札幌のマンションの一室を借りて事務所を開き、航空券や自分で企画した海外旅行ツアー商品を販売するという商売を始めたんです。
 始めてしばらくしたら、けっこう商売が順調にいき始めて、スタッフも数人雇えるようになりました。そして、市内のデパートの中に、副業のような形で紅茶とか民芸品を販売する店も持ったんですよね。
 だけど、あまり事業欲のなかった僕は、その仕事を始めて2年くらい経ってから相棒に仕事を委ねて抜けたんです。僕には少しヒッピー的な思想があって、自然の中で暮らしたい、今で言うロハス的な暮らしを作りたいという思いが強くて。そして、何よりも僕には「宿をやる」という目標がありましたから。
 ・・・この2年間っていうのは短いけれども、すごく凝縮されているんですよ。自分の人生においての下積み時代であって、大きな意味を持っています。何もない所から事務所を立ち上げた1人の信用のない人間が、ツアーを企画してお客さんを集める。それで、海外に行くツアーを組めば1回の旅行で数百万のお金を動かすわけです。そして、自分がツアーに同行した時は、安全に帰って来ないといけないですし。
 そういう風に主体的に行動して、チャレンジする中で、新たなものを作る楽しさを知り、自信を得ることができた。やっている時は若かったのもあって、大丈夫だという確信めいたものがあったんですよ。今思えば、その時は「1か月先食べていけるかどうかわからない」というスリリングな状況だったわけです、まさに綱渡りのような。だけど、結果をどうこう考えていなかったですね。ただ目的に向かって突っ走る、計算して行動するんじゃなくて、行動した分だけ成功が生まれてくるという感じでしたね。もちろん、けっこう失敗もしましたけど。でも、それが面白かったんですよ、僕にとっては。
 そういう積み重ねがあったからこそ、この宿を始められたんですよね。この2年間のうちに、「これをやれるんだから、こういう宿でもどうこうできるんじゃないか」というような、表現する形や場所が変わっても通用するようなセオリーを作れた。その時期に経験して得た、集客方法とか資金の借り入れからやり繰りまで、そして魅力あるサービスを生み出すノウハウなどは宿を始める時、そして始めてからも、ものすごく生きています。

 

宿に対する僕のこだわり

 そんな下積み時代を終え、宿を建てる場所を探そうと西川町に戻ってきたのが1970年代後半のこと。学生時代、旅をした中で宿をやる上での色んなヒントを得た僕には、当時畑や沼以外何もなかったこの場所はうってつけでした。近くには月山とかブナの原生林があるということで、以前から目をつけていた場所でもありましたしね。
振り返れば、僕が世界を旅していた時に惹かれた場所も、例えばサバンナとかジャングルのような手つかずの自然が残っているところ。だから、畑をやったり、ヤギとか羊などの動物を飼えたりするような、より自然に近い環境を作れる場所であることは外せない条件だったんです。その方が人間的というか、人間の本来的な生き方に近いんじゃないかという思いはずっとありましたから。そこはこだわりですね。

 それから、宿の敷地内には電柱も街灯も設置しないことも自分の思いから派生したこだわりの一つ。(電線は地下に埋めています。)電柱があれば景観を損ねてしまうし、街灯があれば興ざめだし星が見えなくなってしまいますから。
 それに加えて、旅人交流宿とか情報交差点のような役割を担える宿にすることも、かねてより僕が描いていた青写真の一つ。それも、ヒントは外国に旅をした時に泊まったリゾート地の安宿から貰いました。色んな国の人が来ていて情報交差点になっているというそこのモデルを日本で実現しようと、当初はホームステイで外国人を受け入れていましたね。(今だと、ウーフの受け入れをやっています)
 そうして、準備期間として2~3年を経た1980年、開業にこぎ着け、結婚していた妻と営業を始めました。

 

僕の色

外国人のホームステイの受け入れをしていた当初は、常に外国人が2~3人いて、その外国人の連れもしょっちゅう宿に出入りしているっていう状況だったんです。「何か変なとこだな」と周りからは思われていたでしょうね。でも、だからこそ、そういうものを好きな人たちが泊まりに来てくれたんですよ。民宿が多い西川町でも、外国人がいて、ヤギとか羊を飼っているところはうちの宿だけ。だから異次元にいる感覚だったでしょうね、お客さんにとっては。
 まぁ、そういう独自の色というか個性を自分で作っていったんですよね。「旅行代理店をやっていた時は自分がしていたような旅行をツアーとして売って、宿をやり始めてからはそういう人たちが来るような仕掛けを作って、それでいて自分自身もそういう人たちと同等の生活を送る」ことを目指しているという点では、一貫しているつもりです。だから、営業本位ではやっていないですね、昔も今も。

 例えば、昔企画していたのは、音楽会や、アウトドアスクールでのカヌーやラフティング。ただ宿に泊まるだけじゃなくて、体験する楽しみ、学ぶ楽しみも提供したかったんですよ。当時、そういうことをやっている人は周りにいなかったから、雑誌にどんどん取り上げられて全国からお客さんが来てくれたんです。当時、雑誌の影響力はすごく大きかったですから。それに、ペンションブームに火が付き始めた頃とも時期がかぶったのは追い風でした。
 そんな風に個性の強い宿だからかどうかはわからないけれど、「自分たちのポレポレファーム」みたいに思ってくれて、何度も足を運んでくれるお客さんは多かったです。そういうお客さんのおかげで成り立っていたところもありますけど、リピーター率の高さはうちの売りでも狙いでもありましたね。

 ・・・とは言っても、理想を追いかけると同時に、経営者、創業者としてのシビアな部分も持ち合わせています。そうでないと到底やれないですし。宿の運転資金、建設資金を確保するために借り入れたお金を、限られた時間の中でいかにして返していくかを考えた時に、一定以上の売り上げを確保し続けることは必須だし、お客さんをつかんでいかないといけないわけですから。それに、仕事と生活を同じ土壌の上で行うという僕の理想を実現するためには、単なる「田舎の人」ではダメで、時代の先端を行く「都会の人」の感性を持ち合わせていないといけないし、そのためにもアンテナを常に張っていることや、勉強して知識を得ることは必要不可欠です。田舎の人に納得してもらいながら、都会の人に共感してもらわないといけないですから。まぁ、そこが面白い所でもあるんですけどね。
 ・・・結果として、始めてから30年と少しの間、決して派手ではなくとも、何とかこうやって営業し続けて来られましたね。

僕が息子に伝えていること

今、東京にいる息子は、来年の頭に(2013年1月)戻って来てこの宿をやりたいと思っているみたいです。「好きなようにしていい」とは言ってきたんですけどね。  彼も色んな所に行って、この場所の面白さに気付いたんじゃないでしょうか。「都会でサラリーマン生活を長くやるものではない」という考え方もあるようで、そのあたりは親である僕と似ているのかもしれません。
 だけど、彼には伝えています。「おれの補佐で仕事をやるんだったら来なくていい。自分でゼロからやれるくらいの発想と行動力がないとやっていけない。そういう風にやる自信と、なおかつそれを面白いと思えるようじゃないならやめた方がいい。」って。
時代はどんどん変わっていくわけですから。

[編集後記]
 僕が西川町に来て、最も影響を受けた人ではないだろうか。「自立」した奥山さんの生き方は、僕にとってのロールモデルだ。
ポレポレファームで働いて、その後、西川町に移住してきた人も多い。「人が人を呼ぶ」本人も理想だと話す、そんな一つの形を作り上げたパイオニアなのかもしれない。  

 

 

Profile

奥山悌二さん

出身 西川町海味
生年月日 1951年
URL http://www.polepole.co.jp/

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中道達也

ライター情報

中道 達也

1987年生。高校卒業後、大学進学のため東京へ。大学時代、勉強をやる意義を全く見いだせず、留年。大学生活5年目の秋、旅をしたアジア(インドネ...