旨いそばを作るために必要なもの。
山形は言わずと知れた、そば王国。
それは子どもの頃からなんども食べた、山形県民のすぐ近くにある存在です。
そして、私達の食欲を満たしてくれる一方で、多くの観光客を山形に呼び込む、一大観光資源でもあります。
山形に住む私達とは、切っても切れない関係にあると言ってもいいでしょう。
では、ここで質問です。
そばは、何を原料として作られるのでしょう。
それは、そば粉と水、そしてつなぎと呼ばれる少量の小麦のみ。
なかでも、そば粉は一番重要な役割を持ち、いかに打ち手の技術が優れていても、そのできあがりはそば粉次第。
旨いそばには、挽きたての良質なそば粉が必要なのです。
100年以上の歴史を持つ、山形の老舗そば粉製粉所
今回キャリアクリエイトの吉田がお伺いしたのは、明治41年創業の老舗製粉所『株式会社 鈴木製粉所』。
山形市は緑町で創業した当時は、旧社屋のすぐそばに流れていた御殿堰の流水を使い、水車を回して小麦や蕎麦を挽いていたそうです。
それからしばらくたち、昭和53年に本社機能と工場を、同じく滑川地区へと移動。
以来、同所で取り扱う原料をそば粉に絞り、その精製に努められています。
製粉とは、文字通りそばの実を粉にすることで、その大まかな内容は、精選、製粉、篩(ふるい)の3つの工程が中心。
ただ、どの工程でも摩擦運動が生じ、そのとき発生する静電気は、食味を低下させてしまう可能性があります。
それを抑制するには、程よい湿気と清らかな空気がある環境が必要です。
同社がある滑川地区は、すぐ側を流れる馬見ヶ崎川や施設を囲むように茂る森の影響で、湿度、そして綺麗な空気が保たれ、そば粉の生産にとって理想的な環境なのだそうです。
そして、それにプラスして、製粉所では最小限に摩擦熱を抑えた石臼による製粉を採用しています。
手間と時間がかかり、またときにメンテナンスが必要ですが、できあがるそば粉は一味も二味も違うようです。
詳しく言えば、石臼の石の種類によっても、だいぶ挽きあがりが違うということですが、かなり説明が長くなるのでこちらでは割愛させていただきます。
ところで、現在の取引先はと言えば、山形県内を中心としたそば屋と、また大手コンビニチェーンなど。
小ロットか巨大なロットかの違いはあれど、できるだけ高品質のそば粉を届けていられるそうです。
異業種出身。知識ゼロから、目利きの達人に。
同社の専務取締役を務めるのは、岡山出身で元JR職員という経歴を持つ鈴木文明さん。
14年前、結婚を気に山形へ移住し、鈴木製粉所に入社されましたが、それ以前はまさかそばの仕事に就くなんて、考えてもなかったそうです。
しかし、根っからの勤勉家であり、生粋の理系出身とあって、そば粉に対し理詰めの独自の見解を見出し、今では日本で5本の指に数えられるようなそばの目利きと呼ばれているそうです。
その鑑定眼を持って、質の高い内麦や外麦(国産蕎麦、外国産蕎麦のこと)の取り引きに臨んでいます。
年間何百トンものそば粉を生産するので、その取引額も桁外れに高額。
仕入れをとはいえ、ある種先物取引のような金額で、会社ひとつなんてすぐに飛ばしてしまうほどのリスクも潜んでいるそうです。
だからこそ、慎重に判断を成すべきであり、取り引きに臨む鈴木専務の責任は重大なのです。
栄華を誇ったそば粉業界。
ここで、少し昔の話をします。
時代は数百年遡った徳川幕府の頃、当時の江戸を襲った病がありました。
それは『江戸患い』と呼ばれるもので、ビタミンレス・高カロリーな食事、ことに米食中心の食生活からくるビタミンB1不足に陥ることで発症するいわゆる贅沢病でした。
一説によれば、その予防法としてそば食が推奨され、それはそれはそば屋が流行したのだそう。
また、当時の居酒屋は酒を水で薄めて販売することがあったそうですが、そば屋の主人はあまり金儲けを考えない人物が多く、そのためそば屋なら旨い(薄くない)酒が飲めるという噂が広まったそうです。
そして、江戸時代に生まれたばかりのそば文化は、瞬く間に江戸の町民文化に溶け込んで行きました。
結果、百万都市と言われた江戸には、町のワンブロックの四隅にそば屋があったといわれ、それは4,000軒弱あった計算になります。
今の東京の1/10くらいの範囲にあったわけですから、それはもう外にでればそば屋だらけ状態。
そこで、栄華を誇ったのが、そば粉の卸元である製粉所でした。
それこそ、巨万の富を築いていきました。
時代に取り残されたそば粉業界。
ただ、その後訪れた外来の食文化とともに、そば粉と比較にならないほど小麦粉の需要が伸びました。
そばを食べる食文化は残りましたが、そばは米や麦などのメジャークロップになることはありません。
そのため、それらのメジャークロップと比べると、品種改良や研究の対象になりにくいものとなってしまったのです。
そばの地位は良い意味でも悪い意味でも、食の最先端からは外れてしまい、ある種嗜好品的な性格も含んだ食文化・伝統食のようなものに移行していったのです。
「米やほか食品と比べ、食味に対する研究もされていないのです。
だから現在、遅ればせながら食品技術センターとそばのおいしさを数値化できないかと試みています。
目で見てわかる判断材料が確立されないと、私達の業界内でもそばのおいしさってすごく不安定な立場にあります。
“おいしい”そばであっても、“おいしくない”と誰かが大きな声で言えば、途端に“おいしくないもの”とされてしまう。
そばの食味の数値化は、業界のこれからのためにとても重要なものなのです」。
それが業界全体の底上げになり、また地元に対しては山形蕎麦という文化を守ることにつながるはずだと、鈴木専務は続けます。
では、今後何をすべきか? 鈴木専務はこう考える。
「異業種出身の私から見ると、我々の業界の常識には、まだまだ検証しなければならない点が山ほどあるように思えます。
食味の研究もそうですが、新品種の開発などさまざまなことに着手したい。
品質管理とか研究開発などは、人数的にも大手には勝てないでしょう。
しかし、私なりの切り口でどこにも負けないような成果を出したい。
そうやってでた研究成果を、業界のみんなで共有し、私はその次のことを模索して、研究していきたい。
新しいことをやるには、99%失敗するかも知れません。
でも、失敗しながらも少しずつ前に進みたいです」。
みんなで協力しあって、業界を盛り上げなければならないと話す鈴木専務は、また違う側面からその必要性を説きます。
「現在、日本各地で老舗格のそば屋が代替わりの時期を迎えています。
そのとき、どれほどの老舗が残るのでしょう。
そば屋は、親が子に継がせたい、子が親の跡を継ぎたいと思わせるような職業にならなければならない。
で、なければ私達の未来はありません」。
編集後記として
近年、鈴木専務は「やまがた女子蕎麦」という、そば屋と消費者の接点を儲けるためのイベントを、毎年開催しています。
他にも宮城の組合に声をかけ、「宮城あったかカレーそば・うどんスタンプラリー」で企画側に参加したりと、本業以外にもそば食の普及に努めています。
その全ては業界の未来を見越してのこと、なかなかできるものではありません。
ところで今、都心では立ち食いそばが凄まじい勢いで伸びています。
また、地方都市では昔から変わらず町場のそば屋が主力となっています。
つまり、今の時代はそば屋の中間層が薄く、伝統か速さと安さかの二極化が起こっているのです。
製粉所としてのクライアントは、その二方向にあります。
しかし、そのあり方を誤れば、その二方向のお店の価値を上げも下げもする。
その双方の救済となるよう業界の底上げを考える鈴木専務は、そば屋業界にとっての救世主となり得るのかも知れません。
私、吉田としては、そう思えてならないのです。
※この記事は、平成29年度「東北地域中小企業・小規模事業者人材確保・定着支援等事業」として作成しました。