中條大希さん

経歴:
1987年生まれ
酒田市出身

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酒田市の高校を卒業後、東京の大学へ進学。卒業後は給排水衛生設備のベンチャー企業へ就職。2015年にUターンし、YAMAGATA DESIGNにて農業担当として活躍中。

 

「必ず地元に戻り、自身を育ててくれた家族や地域に恩返しをする。」という夢

幼いときから祖父母に育てられた経験を持つ中條さん。

この経験が「必ず地元に戻り、自身を育ててくれた家族や地域に恩返しをする。」という夢を明確にしたと言います。

「最初から暗い話にはなってしまうのですが、小学二年生の時に母親が他界。小学校が近いこともあって母親の実家で祖父母と一緒に暮らしていました。幼いころから祖父母に育てられました。」

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高校は酒田東高校。進学校ということもあり、大半の人が大学へ進学。そんな環境なこともあり、中條さん自身もなんとなく県外に進学するのだろうなと思っていたそう。

必然的に、地元に戻ってくるのかどうかを考えるようになり、ここまでお世話になった地元に恩返ししなくては。と感じる部分があったと話します。

「言ってしまえば義務感と使命感のような感じです。」

「もちろんそれだけでなく、学校も楽しくて地元が好きだったというのもありますしね。」

いずれ地元に戻っていることを決意し、大学へ進学します。

 

日本のマックスを見るために東京の大学へ進学

大学は中央大学と、国立大学に合格。

当時は社会情報にとても疎く、世の中を知りません。

「普通なら色々と考えて国立大学に行くべきだったんでしょうけど…。いずれ庄内に帰ってくるなら、一度は日本のマックス(東京)を見たほうがいいでしょ。と思って。中央大学の法学部に進学。

「東京と思って、大都会を想像して中央大学にいったものの、場所がものすごい山の中で、あまり東京感がないっていう。」と笑いながら語ってくれました。

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様々な人との出会いと就職のきっかけ

「法学部への進学については、どうすれば地元に帰ってこられるかと考えたときに、『法律家なら独立開業できるんじゃない?』と親戚から言われて、『なるほど』と思ったからなんです。」

実際に法律家にならなかったのは、「今思えば完全に言い訳なんですけど、学生当時は色々と真っ当そうな理由をつけて、法律家になるのを諦めましたね。」

その後、就職活動にも目を向け、マスコミ関係等も色々考えたそうですが、地元に戻る、戻れるようになることを優先すると、自ら事業を起こすことや経営することを学ぶことができる環境を選ぶべきだと思い、「ベンチャー企業」への就職を考えるようになりました。

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「より早く力がほしい。ベンチャー企業、特に立ち上げ草創期のベンチャーであれば最高だなと思っていました。」

そんな中、とある会社にインターンしている大学の友人に声をかけられ、ある就活サイトに登録させられ…そのサイトがきっかけで、就職することに。

「友人への情で登録したわけなんですけど、登録内容は少し手抜きだったんですよね…。ただ、そのサイトの僕のページを見た前職の代表から、直接連絡をいただきまして。数回の面談を経て意気投合し、そのベンチャー企業に行くことになりました。」

 

 

 

 

大変だけど楽しい。仕事に明け暮れた日々

その出会いがきっかけで、大学3年の9月で就活が終了。卒業するまでその会社で現場のバイトをしていました。

ベンチャーというのもあり、現場はバタバタ。人もいないし、システム化していない部分が多かったため、なんでもやらないといけない。

「入社後は完全な営業職。入社半年後には東京からハイエースに荷物を詰め込み、忘れもしない、1110km先の福岡に、責任者として新規出店しにいっていました。」

何もないところからのスタート。事務所の場所を決め、電話回線をひく段取り等から始まり、営業資料をつくり、テレアポをし、法人営業に行き、個人営業もし、現場の工事も事務・経理作業も全部する、と、ありとあらゆる業務をこなしました。自宅兼事務所で朝5時まで働き、朝7時から仕事を休みなく半年働くというくらい、仕事に明け暮れていた。この時の経験をこう語ります。

 

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「それだけの仕事をしていたので業績も良かったですし、若いから楽しくてしょうがなかった。この時に、人間、無理をすればできるということを学びました。決して、おすすめできるような方法ではないですし、今思い返せば、相当まずい状態ですけど…。

そこからはマネジメントや新規事業開発に業務を移し、合計で全国8拠点の出店と管理を手掛けます。

 

 

転機。地元に戻るのを決意した理由

バリバリと仕事に打ち込んでいた中條さんですが、地元に戻るのを決意した要因が大きく2つありました。1つは親族関係。

2011年に祖父が他界し、祖母が80歳を超えてきたのもあり、そろそろ戻らなければいけないかも、と感じていました。

リアルな話、祖母の記憶がはっきりしている間にやるべきことは様々やらなければいけない。

例えば、真面目な話、家を継ぐとなれば、相続があるし、登記を見直す必要もあります。その時は、何代も家系を遡ったのだそう。

いずれ帰ろうと思っている人には声を大にして言いたいことがあります。

「悩んでないで、早く帰りましょう!」と。

思っている以上に家を継ぐのは大変。ほかにも子どもが産まれたりと、守らなければいけないものが増えてくると、より難しい。しかも時代は老々介護。実際に介護が必要になってから帰るのでは遅すぎる。言葉はよくありませんが、介護は先手必勝です。

周囲の親族は判断するのが大変ですが、一度出ていって帰ってきた人だからこそ、施設に入れるかどうかなど判断できることでもあります。

「子どもが産まれると、改めて自分を産み、育ててくれた人のことを考えるべき。」

「仕事云々よりも、いずれ戻らなければいけない人は、とにかく早く帰ったほうが圧倒的に楽。絶対に逃げられない話ですからね。」

 

YAMAGATA DESIGNとの出会い

地元に戻る決断をしたきっかけのもう一つは仕事。

年に4〜5回山形に帰省しており、その度に飲みに行っていた友人から、面白い人がいる、と言われて会ったのがYAMAGATA DESIGNの代表である山中さん。

その際に意気投合、入社を決意し、翌日には会社を辞めることを前職の代表に伝えました。

鳥海山とサイエンスパーク_SPJV_2017年12月23日撮影

即決出来たのはなぜでしょうか。

「地元に恩返しをすると考えたときに、YAMAGATA DESIGN以上の箱はない。これから何かをやるという棋風を感じたのが大きな要因。前職を辞めるのは本当に大変でしたけど。」と語ります。

こうして、子どもの時からの夢にむかって前進しはじめました。

何ができるかわからなかったけれども、経験等を考慮してもらい、就職。いざ入社してみたら、総務担当でした。しかし、もともと何でもやってみるという姿勢を持っているため、総務として会社の骨格の整備を始めます。

総務と同時に、当時具体的なプロジェクトがなかった「一次産業」の分野を担当し、新規事業の開発を検討していました。

「帰ってきて感じたのは、若い世代、子育て世代が気軽に地元の食材を食べに行けるところが少ない。」

そこで、庄内の起源とも言える自然を使って庄内の生活に彩りを加えるような場所をカフェとして作りたいと思いFARMER’S DINING CAFÉ IRODORIを開業。当時は、ホテルの開業に向けた通年でのオペレーションを考える場所も必要でした。

店舗外観

現在は事業開発部門として、全社的なシステムの整備や新規事業開発、既存事業との連携等、色々なことをしています。

 

 

Uターンしたい人に伝えたいこと

「地方で40歳はまだまだ若手。なので、20代〜30代は引く手あまただと思います。良い企業も組織も、たくさんあって驚きました。だからこそ、改めて最後に伝えたいです。とにかく早く帰ってきたほうがいいです

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