○暦と風土

 

立春をとうに過ぎていますが、新庄はまだまだ水墨画の世界です。

私の住む地域でも、一晩で景色が変わるほどの積雪はさすがになくなりました。たった一月前なら、早朝には除雪車の音を遠くに聞き、窓の外を確認するような日々の緊張があったことを思い出せば、さすがに緩んできました。しかしそうやって油断したころにどっさり積もってたりする朝もあり、というのが毎年のパターンのような気がします。

新庄では長靴が標準装備なので、私の場合はうっかりそのまま泊まりで実家に行ってしまったりして、お出かけのときにそれしか履くものがなくて焦ったりするのはよくあることです。春先になると、山形市では雪がすっかり融けているのに、新庄市ではまだまだ根雪があるので感覚がズレます。道路に雪がなくなっても、雪解け水で足元は常に泥まみれになるので、結局長靴の方が楽だったりするんですよね。

今週は日中に暖房をつけずに過ごした日もありました。朝の空気の冷たさにも日差しは暖かく、土埃の匂いが漂ってくるようになりました。日当たりのいい風除室で、長女が秋にプランターへ移植していたクロッカスが、芽を出してきました。春は近い。

3月3日を過ぎて、子供たちの給食にちらし寿司と雛あられが出てましたが、我が家はまだ雛人形すら出してすらいません。

私たちの住むあたりの地域では旧暦で桃の節句を祝うのが通例となっています。しかし端午の節句は5月5日に合わせます。不思議に思って義家族にきいてみたところ、雛祭りの時期はまだまだ雪があるから、と返ってきました。何が正しいというわけじゃないので、これは各家によって同じ新庄でも違います。

七草など影も形もない時期に七草粥を食べてみたり、暮らしを新暦に合わせるとつじつまが合わないことが多いですが、「周りの家も新暦だから」と、それに倣う家の方が多くなってきた気もします。

新暦と旧暦は調べてみると面白いので、数年前に本など買って読んでみたりもしました。土に触れて作物を育てたりするようになるとまた、昔の人の知恵に触れることができて面白さ倍増です。

我が家では、義家族は「日がいい」「日が悪い」と日ごろから季節の作業をするときはカレンダーと睨めっこしています。雛人形を出したりするのにも、大安なら◎、先勝なら午前、先負なら午後、それ以外は避ける感じです。人形をしまう日も同じように決めます。大きなことをする、始めるときはそうやって縁起を担ぎます。

結婚式は大安がいい、お葬式は友引は避ける、くらいは私にもわかりますが、赤口とかになってくると、もうわかりません。覚えても最近はすぐ忘れてしまうんですよねぇ(言い訳)。調べれば、赤口は正午のみが吉でそれ以外の時間は凶だそうです。それに反したからバチが当たるとかは思いませんが、義婆ちゃんなどは特にそういうのを忠実に守るので、自然と合わせるようになりました。必ずどこかのタイミングでやらなきゃいけない作業の日取りを決めるだけなので、特に気にはならなくなりました。優柔不断なタイプの人なら、目安ができるので、ある意味都合がいいかもしれませんね。

雛祭りで思い出すエピソードは、我が家は4月に行うといっても、世間一般はやはり3月なので、娘が産まれた時の初節句で雛菓子でも買おうかと思ったら、スーパーには雛祭り関係の商品は一切並んでいないってことでしょうか。むしろもう世間は、ちょうど入学式シーズンで、それが終わるとすぐに端午の節句に向かってる時で、あわただしいです。

しかしこれが地域密着のお店だと、そんな時期にも雛菓子があったりするわけです。

郊外型の大きな店舗ばかりに日用品を頼っていたら、暮らしに消費を合わせるのではなく、お店に暮らしを合わせなければいけなくなるのかもしれません。暮らしは全て都会と同じになる。画一化せざるを得ない。最初は便利だと思っても、釈然としないものが残ります。

衣類とかも、本格的に寒くなって暖かいものを買い足そうと思ったら、お店にはもう薄手の春物しかない、なんてことよくあります。運がよければ、冬物が投売り価格で手に入ったりもしますが。これからの季節の方がコレ必要なのに売り尽くしセールってどうよ、と思いながらも買ってしまいますが。全国展開の大型店舗は、セールの時期も一緒でしょうし、どうしても暖かい地域よりも実際の季節とのズレが大きくなるみたいです。衣類は本当にそれが顕著ですね。桜が咲いたら夏物が出てきちゃいます。

果たして都会と同じ生活を送ることが豊かなのか。

雪国には雪国の暮らしがあり、時代の流れがどうであれ、紐解けば全てが理にかなっていたことを、なくしてしまってから思い返す…。でも、一度失われてしまったら取り戻すのは容易なことではありません。

オリンピックの時期、関東甲信越の雪害で、灯油に頼る生活に危惧を覚え、我が家の小屋の一つにでも薪ストーブを導入できないかなあ、と考えたりしていました。先の震災で防災意識には追い風が吹いたはずなのに、人間は結局忘れる生き物というか。今月も灯油代の金額を見て眩暈がしました。我が家は暖房やお風呂など、現在は全てが灯油です。このあたりの地域では、灯油は買いに行くものではなく配達してもらうもの。ホームタンクに500L入るので、請求額を見ると背を向けたくなります。

幸いなことに、山形は災害が少ない県といわれます。

小さい頃から「台風も山形は避けて通る」というのが親の世代の口癖でした。実際台風などは、テレビで沖縄あたりのすさまじい映像を見て戦々恐々としていても、風の音で一晩寝づらいくらいで、翌朝には晴れていて拍子抜け、なんてことが多々あり。もちろん時には農産物などがダメージを受けるニュースは聞きますが、他県に比べると少ないようです。

住んでいればいいところも悪いところもあるわけで。気候一つにしても全然違う。多種多様で当たり前。風土に合った建物がその土地らしさだったりもするのに、今はどんな場所に行っても大して風景が変わらない。新庄もやっぱり、その流れの中にあることは感じます。

それはちょっと、寂しいな、と思います。

 

○コンパクトな街

 

現在住んでいる新庄市に、私が持つ印象。それは「コンパクトな街」だなということ。

物質面でも人間関係の面でもですが、今回は物質面の話です。

新庄に住んで1年くらいの間は、環境に慣れるので精一杯でした。

当時はまだ7人だった家族の夕飯の献立を考え、出歩いてもせいぜい産直とスーパーと公園くらい。たまに銀行や実家に行く。本当にそれだけでした。

そのうち図書館や商店街に足を伸ばすようになり、自分に必要なお店や施設がだいたいわかってくるとなんか導線がすごくスッキリしてることに気づきました。

山形市に住んでいた頃には、一つの用事を終わらせるのに時間がかかった気がします。

大型商業施設などがあって、買い物などは一つの場所で済む場合もあって便利ではありましたが、生活は買い物だけでは解決しない。仕事に行ったり銀行や病院に行ったり、郵便を出したり市役所で手続きしたり、もちろん遊びにも行きます。

今日は用足しの日と決めて動いたとしても、信号は多いし車は多いし、移動時間がけっこうかかるんですよね。休みの日は混んでいる。東京とかに比べたら全然だよ!って怒られそうですが、私は山形市と新庄市にしか住んだことがないのでわかりません。

私は都会には住めなさそうですね。行列に並ぶのとかも好きじゃないし…。子供がいなければいくらでも待てますけども。

新庄は道が混んでいるということはほとんどなく、市内を丸く円を描くようにまわると、あらかた用事が済んでしまいます。混雑している施設もありません。唯一混雑しているなあと感じるのは総合病院くらいでしょうか。

車の流れがスムーズなので、移動距離としてはもしかして新庄の方が多いのかもしれませんが、スイスイなのでその時間もわずらわしくないです。晴れていればちょっとしたドライブ気分。高い建物がないので見晴らしがよく、景色が綺麗ですしね。

でもお店が少なくて不便だよね、とは言われます。昔から住んでいる人も言います。

それを不便ととるかは個人の感覚ですが。今は簡単にネットで買い物もできるので、本当に必要なら私も通販を利用するので、買いに行く時間とガソリン代を思えば本当に便利な時代になりました。お店が少ないとはいえ、日常的に生活するのに不便を感じることはありません。生活するのに必要なものを売っているお店は揃ってます。

地元の山形市だって東京に比べればずっとずっと田舎。でも家電量販店ひとつにとってみても何軒もあったりします。同じ名前の店舗がちょっと離れたところに二つあったりもします。住む人にとって便利かどうかではなく、企業として利益を出せそうな場所かどうかってことなんでしょうか。買う方も買う方で、あっちでいくらだったからこっちではもっと安くしてくれるんじゃないか、もしくは他店だったらもっと値引きしてくれる? なんて迷っちゃいます。そのうち実は時間とガソリン代で大いに損していたことに、昔は気付きませんでした。貴重な休みが石油ストーブを買いに行って終わった、とか。いやいや、大事ですけど暖房は。

近いからあっちの店も寄ってみようか、って思えちゃう距離にお店がたくさんあり、その欲求に振り回されずに過ごすには、けっこう根性がいります。実際にはどこのお店もそれほど値段なんて変わらないし、値切りまくって買うだけなら、お店の人とのコミュニケーションもその場限り。むしろお互い二度と会いたくないかもしれないですね。

新庄は、いい意味でも悪い意味でも、選ぶ余地があんまりない。そこにないなら、ないんです。最低限のものはあります。趣味趣向で選ぶほどの種類はないというだけ。大きな商業施設のある地域は車で一時間はかかる場所ばかりなので、さっさと諦めて次の行動へ。

足るを知る。時間が余ったのでもつラーメン(新庄名物)でも食べに行こうかと言い、食べてるうちに、あれは本当に必要なものだったのか、別になきゃないで済むんじゃないか、なんて思い始めます。外食すればお金は減りますけど、美味しいものを食べた満足感は残ります。

最近はあんまり外で豪遊できてませんが、私はもともと外に出るのが好きなので。食べたり遊んだりするのにお金を使いたい派。モノが残るより思い出を残したい。遠出するときくらい、ケチケチして後悔したくない。観光地にお金を落とすとか小難しい言葉にもできますけど、楽しんだもの勝ちというか。

身近にどんなにたくさんの景勝地があっても、そこに住むと、案外行かなかったりします。いつでも行けると思ってしまって。遠くから来た友人を案内するために行く程度だったりして。日本人が日本を知らないというのと同じでしょうか。

そこに住むということは、日常があるということ。平凡で平坦でマンネリな暮らしです。

目の前が海とか雲海とかなら景勝で日常が豊かになることもあるかもしれませんが…。実際そこに住んでみると、景色というのは当たり前にあるもので感動も薄れ、二の次になります。あればあるに越したことはない、程度のもの。景色がいいけど暮らしにくい場所と、景色は普通だけど暮らしやすい場所、なら断然後者。新庄は、そういう意味で私にとっては暮らしやすいです。地味すぎる理由かもしれませんが。ほかにもいいところはたくさんありますが、一番基本的な暮らしの面で、いいなと思うことは大事なことだと思います。基本的過ぎて気づきにくい、言葉にしにくいもの、ほかにもたくさんある気がします。

子供がいるとまた少し、こうだったらいいのにな、ということはあります。

雪関連の不便は、しょうがないことですがけっこうあります。冬には公園という公園が雪に埋もれるので、外遊びをする場所が本当に限られます。でもこれは、家の裏の雪原(持ち主のいなくなった田んぼ)で子供を野放しにしておけば解決かな。

あと、我が家の場合、学校までの通学路が雪に埋もれてしまうので、登校時と下校時に、途中までの送りとお迎えが必須になってしまいます。たった十数分のことですが、毎日の予定をそこを起点に組み立てるため、けっこう大変ではあります。

でも、今の通学路のいいところは、常に地域の人の気配があるというところ。ほとんどの道が住宅に面しており、昔からそこに住んでいる人ばかりなので、防犯面では最高の条件です。知らない人がいたらすぐにわかる。通り魔もわざわざここは選ばないだろうと思います。雪が多いので、日中から雪かきで出てる人も多いです。どこの家の子供か、だいたいみんな知っている。

集落の人と人との距離の近さをわずらわしく感じることもあるけれど、子供の安心・安全は何事にも変えがたい。それは、我が家などにとっては大きな豊かさの一つの指針になります。

少子化を悪い面でとらえれば未来は暗くなるばかりなのかもしれませんが、現在進行形で子育てをしている立場としては、見守る大人がたくさんいるのはありがたいことでもあります。

結局は感じ方次第でしかないのかもしれません。

余談ですが、うちの5人の子供たちは、一番上の子と下の子とで8歳差になります。うちの子供たちが通う小学校は、取り壊されて隣の中学校とほかの数校の小学校と合併して中高一貫校になるのですが、5人の子供が全て同じ校舎の中にいるという時期が出てきます。何かあったらそこに駆けつけさえすればいいというのは、ちょっといいかな、と。でも、クラスの人数が少ないので、双子が同じクラスになる可能性もあり、それってどうなの? とか。

生活の豊かさって結局、そんな小さな小さなことの足し算と引き算で成り立っているんですね。

そんな感じでまとめたところで、今回は写真の一枚もなかったのに気付きましたが、いつもの長文を読んでくださってありがとうございました。

また一ヵ月後、お会いしましょう。

その時には雪が全部融けて…

ないと思いますけど。新庄なので。

○暦と風土

 

立春をとうに過ぎていますが、新庄はまだまだ水墨画の世界です。

私の住む地域でも、一晩で景色が変わるほどの積雪はさすがになくなりました。たった一月前なら、早朝には除雪車の音を遠くに聞き、窓の外を確認するような日々の緊張があったことを思い出せば、さすがに緩んできました。しかしそうやって油断したころにどっさり積もってたりする朝もあり、というのが毎年のパターンのような気がします。

新庄では長靴が標準装備なので、私の場合はうっかりそのまま泊まりで実家に行ってしまったりして、お出かけのときにそれしか履くものがなくて焦ったりするのはよくあることです。春先になると、山形市では雪がすっかり融けているのに、新庄市ではまだまだ根雪があるので感覚がズレます。道路に雪がなくなっても、雪解け水で足元は常に泥まみれになるので、結局長靴の方が楽だったりするんですよね。

今週は日中に暖房をつけずに過ごした日もありました。朝の空気の冷たさにも日差しは暖かく、土埃の匂いが漂ってくるようになりました。日当たりのいい風除室で、長女が秋にプランターへ移植していたクロッカスが、芽を出してきました。春は近い。

3月3日を過ぎて、子供たちの給食にちらし寿司と雛あられが出てましたが、我が家はまだ雛人形すら出してすらいません。

私たちの住むあたりの地域では旧暦で桃の節句を祝うのが通例となっています。しかし端午の節句は5月5日に合わせます。不思議に思って義家族にきいてみたところ、雛祭りの時期はまだまだ雪があるから、と返ってきました。何が正しいというわけじゃないので、これは各家によって同じ新庄でも違います。

七草など影も形もない時期に七草粥を食べてみたり、暮らしを新暦に合わせるとつじつまが合わないことが多いですが、「周りの家も新暦だから」と、それに倣う家の方が多くなってきた気もします。

新暦と旧暦は調べてみると面白いので、数年前に本など買って読んでみたりもしました。土に触れて作物を育てたりするようになるとまた、昔の人の知恵に触れることができて面白さ倍増です。

我が家では、義家族は「日がいい」「日が悪い」と日ごろから季節の作業をするときはカレンダーと睨めっこしています。雛人形を出したりするのにも、大安なら◎、先勝なら午前、先負なら午後、それ以外は避ける感じです。人形をしまう日も同じように決めます。大きなことをする、始めるときはそうやって縁起を担ぎます。

結婚式は大安がいい、お葬式は友引は避ける、くらいは私にもわかりますが、赤口とかになってくると、もうわかりません。覚えても最近はすぐ忘れてしまうんですよねぇ(言い訳)。調べれば、赤口は正午のみが吉でそれ以外の時間は凶だそうです。それに反したからバチが当たるとかは思いませんが、義婆ちゃんなどは特にそういうのを忠実に守るので、自然と合わせるようになりました。必ずどこかのタイミングでやらなきゃいけない作業の日取りを決めるだけなので、特に気にはならなくなりました。優柔不断なタイプの人なら、目安ができるので、ある意味都合がいいかもしれませんね。

雛祭りで思い出すエピソードは、我が家は4月に行うといっても、世間一般はやはり3月なので、娘が産まれた時の初節句で雛菓子でも買おうかと思ったら、スーパーには雛祭り関係の商品は一切並んでいないってことでしょうか。むしろもう世間は、ちょうど入学式シーズンで、それが終わるとすぐに端午の節句に向かってる時で、あわただしいです。

しかしこれが地域密着のお店だと、そんな時期にも雛菓子があったりするわけです。

郊外型の大きな店舗ばかりに日用品を頼っていたら、暮らしに消費を合わせるのではなく、お店に暮らしを合わせなければいけなくなるのかもしれません。暮らしは全て都会と同じになる。画一化せざるを得ない。最初は便利だと思っても、釈然としないものが残ります。

衣類とかも、本格的に寒くなって暖かいものを買い足そうと思ったら、お店にはもう薄手の春物しかない、なんてことよくあります。運がよければ、冬物が投売り価格で手に入ったりもしますが。これからの季節の方がコレ必要なのに売り尽くしセールってどうよ、と思いながらも買ってしまいますが。全国展開の大型店舗は、セールの時期も一緒でしょうし、どうしても暖かい地域よりも実際の季節とのズレが大きくなるみたいです。衣類は本当にそれが顕著ですね。桜が咲いたら夏物が出てきちゃいます。

果たして都会と同じ生活を送ることが豊かなのか。

雪国には雪国の暮らしがあり、時代の流れがどうであれ、紐解けば全てが理にかなっていたことを、なくしてしまってから思い返す…。でも、一度失われてしまったら取り戻すのは容易なことではありません。

オリンピックの時期、関東甲信越の雪害で、灯油に頼る生活に危惧を覚え、我が家の小屋の一つにでも薪ストーブを導入できないかなあ、と考えたりしていました。先の震災で防災意識には追い風が吹いたはずなのに、人間は結局忘れる生き物というか。今月も灯油代の金額を見て眩暈がしました。我が家は暖房やお風呂など、現在は全てが灯油です。このあたりの地域では、灯油は買いに行くものではなく配達してもらうもの。ホームタンクに500L入るので、請求額を見ると背を向けたくなります。

幸いなことに、山形は災害が少ない県といわれます。

小さい頃から「台風も山形は避けて通る」というのが親の世代の口癖でした。実際台風などは、テレビで沖縄あたりのすさまじい映像を見て戦々恐々としていても、風の音で一晩寝づらいくらいで、翌朝には晴れていて拍子抜け、なんてことが多々あり。もちろん時には農産物などがダメージを受けるニュースは聞きますが、他県に比べると少ないようです。

住んでいればいいところも悪いところもあるわけで。気候一つにしても全然違う。多種多様で当たり前。風土に合った建物がその土地らしさだったりもするのに、今はどんな場所に行っても大して風景が変わらない。新庄もやっぱり、その流れの中にあることは感じます。

それはちょっと、寂しいな、と思います。

 

○コンパクトな街

 

現在住んでいる新庄市に、私が持つ印象。それは「コンパクトな街」だなということ。

物質面でも人間関係の面でもですが、今回は物質面の話です。

新庄に住んで1年くらいの間は、環境に慣れるので精一杯でした。

当時はまだ7人だった家族の夕飯の献立を考え、出歩いてもせいぜい産直とスーパーと公園くらい。たまに銀行や実家に行く。本当にそれだけでした。

そのうち図書館や商店街に足を伸ばすようになり、自分に必要なお店や施設がだいたいわかってくるとなんか導線がすごくスッキリしてることに気づきました。

山形市に住んでいた頃には、一つの用事を終わらせるのに時間がかかった気がします。

大型商業施設などがあって、買い物などは一つの場所で済む場合もあって便利ではありましたが、生活は買い物だけでは解決しない。仕事に行ったり銀行や病院に行ったり、郵便を出したり市役所で手続きしたり、もちろん遊びにも行きます。

今日は用足しの日と決めて動いたとしても、信号は多いし車は多いし、移動時間がけっこうかかるんですよね。休みの日は混んでいる。東京とかに比べたら全然だよ!って怒られそうですが、私は山形市と新庄市にしか住んだことがないのでわかりません。

私は都会には住めなさそうですね。行列に並ぶのとかも好きじゃないし…。子供がいなければいくらでも待てますけども。

新庄は道が混んでいるということはほとんどなく、市内を丸く円を描くようにまわると、あらかた用事が済んでしまいます。混雑している施設もありません。唯一混雑しているなあと感じるのは総合病院くらいでしょうか。

車の流れがスムーズなので、移動距離としてはもしかして新庄の方が多いのかもしれませんが、スイスイなのでその時間もわずらわしくないです。晴れていればちょっとしたドライブ気分。高い建物がないので見晴らしがよく、景色が綺麗ですしね。

でもお店が少なくて不便だよね、とは言われます。昔から住んでいる人も言います。

それを不便ととるかは個人の感覚ですが。今は簡単にネットで買い物もできるので、本当に必要なら私も通販を利用するので、買いに行く時間とガソリン代を思えば本当に便利な時代になりました。お店が少ないとはいえ、日常的に生活するのに不便を感じることはありません。生活するのに必要なものを売っているお店は揃ってます。

地元の山形市だって東京に比べればずっとずっと田舎。でも家電量販店ひとつにとってみても何軒もあったりします。同じ名前の店舗がちょっと離れたところに二つあったりもします。住む人にとって便利かどうかではなく、企業として利益を出せそうな場所かどうかってことなんでしょうか。買う方も買う方で、あっちでいくらだったからこっちではもっと安くしてくれるんじゃないか、もしくは他店だったらもっと値引きしてくれる? なんて迷っちゃいます。そのうち実は時間とガソリン代で大いに損していたことに、昔は気付きませんでした。貴重な休みが石油ストーブを買いに行って終わった、とか。いやいや、大事ですけど暖房は。

近いからあっちの店も寄ってみようか、って思えちゃう距離にお店がたくさんあり、その欲求に振り回されずに過ごすには、けっこう根性がいります。実際にはどこのお店もそれほど値段なんて変わらないし、値切りまくって買うだけなら、お店の人とのコミュニケーションもその場限り。むしろお互い二度と会いたくないかもしれないですね。

新庄は、いい意味でも悪い意味でも、選ぶ余地があんまりない。そこにないなら、ないんです。最低限のものはあります。趣味趣向で選ぶほどの種類はないというだけ。大きな商業施設のある地域は車で一時間はかかる場所ばかりなので、さっさと諦めて次の行動へ。

足るを知る。時間が余ったのでもつラーメン(新庄名物)でも食べに行こうかと言い、食べてるうちに、あれは本当に必要なものだったのか、別になきゃないで済むんじゃないか、なんて思い始めます。外食すればお金は減りますけど、美味しいものを食べた満足感は残ります。

最近はあんまり外で豪遊できてませんが、私はもともと外に出るのが好きなので。食べたり遊んだりするのにお金を使いたい派。モノが残るより思い出を残したい。遠出するときくらい、ケチケチして後悔したくない。観光地にお金を落とすとか小難しい言葉にもできますけど、楽しんだもの勝ちというか。

身近にどんなにたくさんの景勝地があっても、そこに住むと、案外行かなかったりします。いつでも行けると思ってしまって。遠くから来た友人を案内するために行く程度だったりして。日本人が日本を知らないというのと同じでしょうか。

そこに住むということは、日常があるということ。平凡で平坦でマンネリな暮らしです。

目の前が海とか雲海とかなら景勝で日常が豊かになることもあるかもしれませんが…。実際そこに住んでみると、景色というのは当たり前にあるもので感動も薄れ、二の次になります。あればあるに越したことはない、程度のもの。景色がいいけど暮らしにくい場所と、景色は普通だけど暮らしやすい場所、なら断然後者。新庄は、そういう意味で私にとっては暮らしやすいです。地味すぎる理由かもしれませんが。ほかにもいいところはたくさんありますが、一番基本的な暮らしの面で、いいなと思うことは大事なことだと思います。基本的過ぎて気づきにくい、言葉にしにくいもの、ほかにもたくさんある気がします。

子供がいるとまた少し、こうだったらいいのにな、ということはあります。

雪関連の不便は、しょうがないことですがけっこうあります。冬には公園という公園が雪に埋もれるので、外遊びをする場所が本当に限られます。でもこれは、家の裏の雪原(持ち主のいなくなった田んぼ)で子供を野放しにしておけば解決かな。

あと、我が家の場合、学校までの通学路が雪に埋もれてしまうので、登校時と下校時に、途中までの送りとお迎えが必須になってしまいます。たった十数分のことですが、毎日の予定をそこを起点に組み立てるため、けっこう大変ではあります。

でも、今の通学路のいいところは、常に地域の人の気配があるというところ。ほとんどの道が住宅に面しており、昔からそこに住んでいる人ばかりなので、防犯面では最高の条件です。知らない人がいたらすぐにわかる。通り魔もわざわざここは選ばないだろうと思います。雪が多いので、日中から雪かきで出てる人も多いです。どこの家の子供か、だいたいみんな知っている。

集落の人と人との距離の近さをわずらわしく感じることもあるけれど、子供の安心・安全は何事にも変えがたい。それは、我が家などにとっては大きな豊かさの一つの指針になります。

少子化を悪い面でとらえれば未来は暗くなるばかりなのかもしれませんが、現在進行形で子育てをしている立場としては、見守る大人がたくさんいるのはありがたいことでもあります。

結局は感じ方次第でしかないのかもしれません。

余談ですが、うちの5人の子供たちは、一番上の子と下の子とで8歳差になります。うちの子供たちが通う小学校は、取り壊されて隣の中学校とほかの数校の小学校と合併して中高一貫校になるのですが、5人の子供が全て同じ校舎の中にいるという時期が出てきます。何かあったらそこに駆けつけさえすればいいというのは、ちょっといいかな、と。でも、クラスの人数が少ないので、双子が同じクラスになる可能性もあり、それってどうなの? とか。

生活の豊かさって結局、そんな小さな小さなことの足し算と引き算で成り立っているんですね。

そんな感じでまとめたところで、今回は写真の一枚もなかったのに気付きましたが、いつもの長文を読んでくださってありがとうございました。

また一ヵ月後、お会いしましょう。

その時には雪が全部融けて…

ないと思いますけど。新庄なので。

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小嶋可那子

ライター情報

小嶋 可那子

平成19年に夫の故郷の新庄市での暮らしをスタートさせました。四世代同居で10人家族です。 最上伝承野菜のPRや、染め物を生業としながら、ときど...