鶴岡市の大鳥という超山奥の、超限界集落に住みついて約半年が経ちました。

それまでの26年間、ず~っと都会暮らしをしてきたわけですが…

 

「『なぜそんな山奥に?!その若さで?!』と疑問に思う方、手を挙げて下さ~い」

 

と100人に尋ねたら、2人くらいは手を挙げてくれるかもしれませんね。笑

 

その理由を少しずつお話していこうと思うのですが…

 

恐らく、このサイトやブログを見ている方々の多くは、今は山形から離れているけど地元が山形だったり、山形と何かしらの縁がある方が多いと思います。

 

実は僕にも山形に少し縁があります。

母の実家が村山市にあり、小さい頃はよく山形に遊びに行って、芋煮を食べたり餅つきや雪かきをしていた…

山寺や蔵王温泉、銀山温泉とかにも行ったかな…

 

とはいえ、山形に住んだこともなければ厳しい冬は殆ど経験していません。

山形への思い入れはありながらも人生の殆どは都会生活を送ってきています。

 

都会への憧れで、東京の大学を目指す…

小学校から高校まではずっと大阪にいました。

現役の時に受験に失敗し、一浪をした時の夏に考えが変わりました。

 

キッカケは高校3年間クラスが一緒だった友達でもあり、一緒に浪人していた仲間。

 

「俺は日体大に行って、体育の教師になる!だからお前も一緒に東京いくぞ!」

 

僕はそれまで、関西では割と名の知れた大学で、いかにも『キャンパスライフ♪』という響きが似合う関西大学というところに行こうと思っていました。

家からもかなり近かったし…

 

でも、仲良い友達が都会にチャレンジする姿を見て、「一度は東京を見ておきたい…」という想いが湧いてきました。

今思えば特に強烈な理由も無く、単なる東京・日本の中心への憧れだったのだと思います。

 

気付いたら7校受験した内の6校は関東の大学でした。

ちなみに受験料は一校3万円なので、21万円の出費。

お母さんごめんなさい…笑

 

そんなこんなで東京に出てきました。

 

就職活動で大苦戦!

妻夫木聡と柴崎コウが主演の素敵なキャンパスライフを繰り広げる「オレンジデイズ」というドラマが流行っていて、僕もそんなキャンパスライフを送りたいなぁ~なんて…

でも意外に真面目で熱い性格だったのか、飲むために集まるようなサークルがつまらないと思い、大学から始めても日本一を目指せる体育会ヨット部に入っていました。

そこから4年間、海の上で風と波と闘うヨットというスポーツをすることとなる…

そして大学4年の春、就職活動真っ盛りの時期に僕は海の上にいました。

 

その年は2008年9月にリーマンショックが起こった年だったが、それまでは売り手市場と呼ばれ雇用も割と多かった…

でも僕は主将という大役を任されていて、就職活動という理由で部活をあまり休まなかったこともあってか、就活は見事に全スベリ…

 

大学5年生をすることになります。

 

2010年は日本の企業全体がリーマンショックの影響を受け、雇用が急激に冷え込む…

とはいえ「体育会で4年間過ごし、主将までやって全国4位にもなったのだから、留年していようが就活は余裕でしょ!」

 

…と考えていたのが甘かった。

 

「遠い海の向こうで起こったことがこんなにも就活に影響するのか!」と嘆きたくもなるほどエントリーシートを書きまくっていた。

 

50枚は書いたかな…

 

何十回もお祈りメールを受信しながら、2社から内定を貰うことができたので、採用してくれた人事の人柄が良いと感じた会社に勤めることにした…

 

おばあちゃんに囲まれて感じた、幸せな80歳。

就職活動を終え、ほっと一息ついた2010年8月。

 

9年前に亡くなったおじいちゃんの墓参りをしたいと思い、4年ぶりに母方の実家山形に帰った。

その時の僕は22歳。

 

行く前におばあちゃんに連絡を取った時、『東根温泉に友達と一泊しているからおいで。』と声をかけられ、教えられた宿の名前とガラケーの地図を頼りに宿に向かう。

 

東根温泉の大きな看板をくぐり暫く歩くと、言われた宿の名前の看板を見つけた。

 

「こんばんわ~」 ドスッとボストンバックをおろし、少しうつむき加減でフロントの椅子に腰を掛けていると、旅館の女将が出てきて、部屋に案内された。

 

「よぐござたなっす!」

 

 おばあちゃんはコテコテ山形弁だけど、この言葉だけは理解できる。

 

既に風呂も食事も済ませた後で、20畳はある部屋に8人のばーちゃんたちが、リンゴの皮を自前のナイフで切り分けながらじゃれ合っていた。

 

切られたリンゴを頬張りながら、若いだけで無駄にモテるという感覚を久しぶりに味わっていた。

なんだか修学旅行に来ている気分。

 

布団を敷きながら「ワタスはここで寝る!」と陣取り合戦を始めたり「ちょっと暑いから着替える!」といい堂々と目の前で着替え始めたり。

 

80歳前後のおばあちゃんたちが過ごしているその時、その空間が、たまらなく幸せそうに見えた…

 

『80歳を超えてもそんなに笑っていられるんだ!』

 

僕の中では80歳過ぎたじーちゃんばーちゃんって、歳いって体が動かず、同じことを繰り返し話すし、ボケて喋ってる内容が良くわからないようなイメージがあった。

 

でも、山形のばーちゃんは今でもチャリに乗って畑に行き、クワを持って土をいじり、脚立に上ってサクランボを収穫する。老人クラブのような集まりに行けば輪投げ大会にも参加するし、ご近所とのおしゃべりも欠かさない。

そんな姿を見ていると、死ぬまで楽しく働くことも幸せなんじゃないかな~…って。

 

アキレス腱を切ったからこそ気付いた、今までの日本人の働き方に対する疑問

2010年11月…

社会人のバレーボールチームに誘われ試合に出たのですが、勢いよくスパイクの助走をしようとしたその時!

 

「ブチッ!!!」

 

 

という音と共に右のアキレス腱を断裂しました。

 

それから3ヶ月は自宅警備員生活…

人生初の3ヶ月間の休養…

ろくに外も出歩けないし、あまりにも暇すぎるので、Amazonで経済・お金・大企業の社長さんの本、ビジネス書とかをまとめて買っては読みまくっていました。

3か月で100冊以上は読んだんじゃないかな…

 

読んでいる中で思ったのは、『サラリーマンとして働くことで年功序列給料が上がり、マイホームを手に入れて幸せな核家族を築く』というモデルが、もはや崩れているんじゃないかなということ。

 

よくよく考えてみると、JALやウィルコムが潰れていましたよね。

あの有名な企業が一瞬にして無くなっちゃったんです。

 

「そんなことが目の前で起こっていたので ある意味、一つの会社で勤めあげた親父は凄いとは思う。けど、年功序列も崩れかけている今の世の中で会社にぶら下がること程危険なことはない。会社がもしダメになってしまった場合でも次を切り開ける力を付けなければいけないな…。」

そんなことを考えていた頃、BRICSやアジアが凄い勢いで伸びている事を知りました。

「これからはアジア!英語は絶対必要になるし、話せて損は無い!」と、かなり安易な発想だったけど、そんなノリで就職する前に語学留学をしにフィリピンへ飛んだ。

 

フィリピンで感じた、アジアの可能性

この一か月間は、僕にとってかなり有意義な時間。

同じ人間と言えど、人が違う。文化が違う。食事が違う。環境が違う。あらゆるものが違って見えた。

英語が喋れるようになるにつれ、自分がどんどんオープンマインドになっていき、見知らぬ人とも気軽に喋れるようになった。

フィリピンは今もそうですが、第二外国語が英語で、若い人を中心に英語を使える人がベラボウに多い国。

それに加えて人件費が日本の1/6なので、世界中から英会話関連の企業が入りまくっている状況。僕が留学していたセブ島というところでは、特に英語の語学留学とコールセンターが沢山あります。

 

そんな状況を見て、英語が話せるようになれば、世界で仕事ができる可能性があると思った。

 

そして自分が海外で働くことを身を持って体現し、その経験を日本国内へ発信できたら面白いんじゃないか。

国内の若い人が海外で働くことの選択肢をもっと身近に持つことができれば、仮に日本で勤めた企業がダメになっても、海外で勝負できるんじゃないか。

日本の若い人と海外を繋ぐ架け橋のような仕事がしたいと思い始めた…

 

だから、馬鹿みたいな話かもしれませんが、3年で会社を辞めて、海外に出る!ということを就職する前から決めてしまっていたんですね。

 

仕事を始めてからも、高度経済成長期に築きあげてきた日本の産業が衰退していくことを自分の身で実感していた。

電子部品メーカーという業界だったからかもしれませんが、国内で製造していたモノが、安価で作れる中国やタイ、ベトナムにどんどんシフト。

「国内の工場は空きがあるからもっと受注してくれ!」とは言われるが、価格で海外へシフトしてしまっているのだからどうしようもない…

 

国内の売り上げは減っていっていました。

 

このままの経営では潰れるんじゃないかな~って勝手に思いながらも、仕事を覚えることに精一杯で何もすることが出来なかった。

 

そんな中、ワーホリ・MBA・JICA・海外で起業した日本人のセミナー、世界一周をしながら稼いでいた学生のセミナーなど、海外で働くことを切り口とした説明会に出たりしながら少しずつお金を貯め、海外に出る準備を着々と進めていた。

 

海外⇒日本の地方へ…ヒッチハイクがもたらした変化

社会人2年目のゴールデンウィーク。

好奇心旺盛、やったことのないことにチャレンジしてみたい性分で、生まれて初めてヒッチハイクをしてみました。

 「関西のほう!with Me」と書いたボードを10時間ほど掲げ続けた末に身寄りのない?僕を拾ってくれたのが、萩原さん。

 

萩原さんは大阪の門真で植木屋さんをしながら、京都にある福知山の山小屋でお米を育てたり山菜を採ったりしながら自給自足的に近い生活をしているハイパーな65歳。

都会と田舎のデュアルライフ生活をしていることに僕のアンテナが立ちまくり、早速その山小屋にお邪魔しました。

 

山と川に囲まれながらその場でワラビとタケノコを採り、山小屋で調理して貰った。

それを食べた時に直観的に思った…

 

『生きることに直結する生活って、こんなにも豊かなんだ!』

食べたものが、自然の恵みから得られたものだと肌で感じることができるし、沢の水や空気が美味しい。

 

それからというもの、萩原さんのことが好きになり、足しげく通うようになった。

一緒に阿波踊りに行ったり、平城京にいったり…

 

同じ時間を過ごすなかで、福知山でも過疎が進み、山小屋がある集落も限界集落だということを話してくれた…

 

「伝統としてあったお祭りも無くなり、人もドンドン都市に向かっている。こんな素晴らしい環境があるのに寂しい。田口さん、一緒に山おこしやらないか?」

 

その言葉が胸に刺さった。

 

「何とかしたい!」と強く思った。

 

そして、いつの間にか地方で生きることを考え始めていました…

 

けど、僕にはお金も無く、田舎で暮らした経験も無いので、準備も無しで飛び込むのは正直怖くて、具体的なことは何一つ出来ないでいた…

 

地域おこし協力隊という選択肢

山おこしが頭の片隅にありながらも、海外に出る準備を進めていた頃…

 

東京で知り合った友人(ヤマガタ仲間でもある、真室川町地域おこし協力隊の大友君)が、岡山県の西粟倉というところに縁があって移住したのを聞き、遊びにいきました。

 西粟倉は、廃校を殆どそのまま利用して森の学校という間伐材を利用した木材加工品を作っている会社が最近スタートし、僕より若い大阪出身の女の子がそこで働いている。

また、地震災害が少ない村として、3.11以降に移住してきた人が増えてきていた。

「若いのになんでこんなところで?」と思っていたけど、雇用という受け皿があるし、育児目的で移住してきたことを聞くと、少し頭の整理がついた。

 

丁寧に西粟倉を案内して貰ったその日の晩、鳥取県八頭町というところで地域おこし協力隊として働いている女の子を紹介して貰った。

 

そこで初めて地域おこし協力隊という制度を知ることになる…

 

都会暮らししかしていなかった自分が、地方に住みながら3年間はお金を貰いながら活動できる。

 

西粟倉から横浜に帰ったら、すぐに足が動き出していた…

 

そうして地域おこし協力隊として働ける自治体を探して申し込み、僕にとっての第二の故郷の山形に、ご縁があって住むことができています。

楽しい老後を見せてくれたおばあちゃんのいる村山市ではなく、鶴岡市の山奥の大鳥というまったく見知らぬ土地ではありますが、山や川が身近にあるし、近所のおじいちゃん・おばあちゃん、とても暖かいです。

 

人口100人以下、65歳以上が70%の超限界集落なのですが、不思議と寂しくないんですよね。

なんだかんだ毎日誰かと話して、笑っていられるから…

 

小さな集落だし、インフラはみんなで管理しているので朝仕事とか大変なのですが、大鳥にこれて良かった。

今ではそう思えています…。

 

 

最後にお伝えしたいこと…

 

Uターン・Iターン・Jターン。

 

地方に住もうと思った時に必ずといっていいほど出てくるキーワード…

 

地域活動がどこの県でも盛んで、魅力的な活動をしている団体・地域が沢山あります。

※勿論、山形も例外ではありませんよ!!!笑

 

PRや誘致のやり方もそれぞれ。

 

「さぁ!定住してください!補助金はこれだけ出しますよ!」

なんてところもあると思います。

 

人口減少を問題と捉える自治体が殆どなのですが、人口自体が減っていくことは今の日本の人口ピラミッドを見ても明らかですよね。

 

「人口が減っているから補助金を出して都会から人を取り戻そう!」なんて考えは少し乱暴な気がしませんか?

 

移住するかどうか、その地域と関わりを持とうとするのはあくまであなた自身。

補助金で決めてしまうような人生では面白くもなんともないですよね。

 

だから、「移住してくれ!」だなんて、傲慢なことは絶対に言えません。

僕も誰からか頼まれたわけではなく、自分で決めて山形に来ていますので…

 

あくまで、あなた自身の感性で「ヤマガタ未来ラボさんの活動が面白いなぁ~」「一度話を聞いてみたいなぁ~」「応援したいなぁ~」とか…思えるようであれば、それは本当に素敵なことですよね。

 

必ずしも移住することが正解ではなく、都会と山形を行き来するような関わり方でもいいし、都会から山形を支えることだってできる。

 

どんな形であれ、山形と繋がりを持って頂くことは嬉しく思います。

 

最後になりましたが、1億以上あるホームページの中から奇跡的な確率でこのサイトにたどり着き、この記事を見て頂いて本当にありがとうございます。

 

「山形にもこんな変な人がいるんだな~」って思って貰えるだけでも嬉しいです。笑

 

ではでは、長々と乱文を失礼いたしました。

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この記事を書いた人

田口 比呂貴

1986年生まれ、大阪育ち。法政大学を卒業後、電子部品メーカーに勤務。2013年から鶴岡市地域おこし協力隊として大鳥地区に移住。現在、マタギ見習...

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