*注意*

今回のブログは長文です。もはや論文です。

しかも、2,3回読まないと意味不明です。

昼休みに読むと、休憩時間終わっちゃいますよ。

<ミニ置賜弁講座>

どうもっし。

 

山形県置賜地方(ザックリ言うと、県の下の方)では、語尾に「し」を付けるのは丁寧な表現なんですよ。

何でも「し」を付けるといい感じになります。

もう2年くらい、僕もあいさつに「し」をよく使います。

「っし~」「し~」みたいな。

 

かといって、「おはようございまっし」「いただきまっし」「はじめまっし」「さよならっし」

なんて人はいないので、要注意。

「おっ、コヤツ、偽者だな・・・」って、バレます。

これなら、ホント「し~」しか言わない方がいいです。

 

まあ、このくらいは僕が最初に覚えた方言だから、置賜弁・門下生レベルですがね。

<このブログはどこへ向かうのか…>

年明けたのに2013のままでした、タイトルが。

一応、2014に変更。

 

さて、5回目の今回。何書こうかと思いながらも…。

前回の記事で吉島の梅津さんからのコメントがあり、あらためて僕が川西町で生活していると実感したところでございます。

 

川西ワールドカップって、自分でもわかりません。

何ですか、この設定は?全然、ワールドじゃないじゃん。

ホーム戦っていつあるの?みたいな。

でも、この町の人は親切だったりシャイだったりするので、いちいち言う人はいません。

ラッキーボーイ万歳!!!

 

このブログを誰が読んでくれているのか?というのもあります。

今までは都会から地方への移住希望者に向けて、何かしら体験談が伝わればと思い、書いてはいたんですが…。置賜の人から「見たよ」と言われることが多いから、やっぱり、その人たちに楽しんでもらえる内容にしようかと。

 

さて、こういう乱文で600字も消費しました。

1回、協力隊で書いている川西町の町報なら、これで終了です。

まだ言い残したことが…。

僕は何かしらの作業をする時は、いつも音楽を聴きながらしています。

なので、このブログを書いている時に聴いている曲をメモしておこうかと。

記念だぜ!!

**ここまでは**

三分間日記 by 19(アルバム:音楽)

(歌詞と、ラストのサビで音程を少しはずすところがライブ感があっていい!!

<限界集落ドキュメンタリーを観て>

3月末で協力隊任期終了する、このタイミングでキマシタ!!

深夜のテレビ番組で限界集落に移住した若者の7年間のドキュメンタリーが放送されていました。

僕の協力隊個人ブログにも書きましたが、とても共感できる内容でした。

大阪から農業で生計を立てようと移住した30歳前後の青年は、外見も性格も(!?)僕に似ていて、その境遇に思わず画面に釘付けになりました。

いつものように(!?)小さな集落に移住する時の壁となるのは…

「よそ者に集落の規律を乱されたくない」

「先祖から受け継いでいる土地をよそ者に貸したくない」

などなど、定番フレーズが登場するのですが、

集落の人も本気で嫌だと思っているわけではなくて、不安なのです。

今までよそ者と暮らしたことがなかったわけだから。

しかし、番組内には、住んでみると色々と世話してくれる人々がたくさん登場します。

こういうところが、小さな集落の良さじゃないでしょうか?

<移住者はどう思われるか?>

このように移住者が珍しい地域では、移住者というだけで注目してくれます。

しかし、その地域の文化や風習をふまえた「あるべき姿」を、その移住者に求めることもあると思います。

番組でもありましたが、集落側は過疎化が深刻で、このままでは村がなくなってしまうから若者を呼んだのです。一方、若者は独自の方法で農業をしたくて移住したのです。

ここからは、両者の関係性をどう築けるかにかかっています。

さらに、付け加えると、集落側には若者に定住してもらい子供を育ててほしいという意図があります。

そこで登場するのが結婚です。相手は都会から連れてきた人ではなく、地元の人が好ましいはずです。だって、もう逃げれないから(笑)

しかも、独身男なら婿の可能性も秘めています。集落の人たちは、独身で限界集落に移住する人が長男ではないと予想しているからです。

と、僕は放送されてもいないことを妄想して集落の意図を予想していたのですが…。

ここで、大きな落とし穴がありました。

**ここまでは**

強く儚い者たち by Cocco

(世界観が独特でカッコいい。歌詞はネガティブww

<限界集落に移住した結果>

大阪から移住した青年の7年後の映像が流れました。

ようやく農業でなんとか生活出来るようになった…

と、ここまではよかったのですが、実は、まだ独身だったのです。

移住した最初の頃は近所のおばちゃんが「結婚が…」と毎日話しかけてきたのに、集落に赤ちゃんが誕生してうれしいとか、若い人に来てもらって活気が出たとか、定住してほしいとか…

若者応援団、どこ行ったんだ~い!!!!?って、思いましたよ、正直。

7年も住んでるから珍しくなくなって、飽きたんでしょうか?

青年、何かトラぶったんでしょうか?

田舎では50過ぎても若者と呼ばれるから、37なんて若若造なんだろうか?

僕の妄想は続きます。

そして、根本的な問題に気付いてしまいました。

そもそも、若者がいないから限界集落なんですよね。

だから、若い女性なんていないし、いても既婚者である場合が多いんじゃないかと。

よって、30前後の独身男が限界集落に移住した場合の結婚率がどれだけ低いかを…。

でも、このような現状だと「町に若い人がいないわけではない」って、言われます。

確かに統計表を見ればそうなのかもしれませんが、地域に同年代の知り合いが誰もいない青年の場合は、隣町の産直で働いている人や温泉の受付の人、カフェ(ないかもしれないが)の店員さんにいきなり声をかけるレベルを意味します。声をかけて上手くいくなら、それに越したことはないし、きっかけは何でもいいと思うんですが、誰でもいいってわけじゃないから、そこが全国共通の悩みどころなんじゃないでしょうか?

こう考えると、農業という仕事が、いかに家族経営かってことを実感します。

青年(とはもう言えないですが)は、農業がやりたくて移住したわけだから、目標は着々と達成しているので、これでいいといえばいいんですが。

でも、限界集落に移住して、受け入れ集落の人は定住定着を期待しているのに、お見合いがどうこうとか、そういう本気のお節介があってもいいんじゃないかって、思うわけです。

地元の人は、この場所がどんな場所かってわかってるはずなんだから、お互い遠慮している部分もあるのかもしれないけど、7年も住んでいるのに、何か腑に落ちないっすね。

彼がこの集落に暮らしている意味って、彼自身では合点がいくけども、集落の一員として客観的に見てしまうと、なぜここに住んでいるのか?なぜ自分でなければいけないのか?誰でもよかったんじゃないか?と思うはずです。

しかし、こういう悩み(問題!?)はジレンマの一種だと思います。

言ってしまえば、青年は集落の人に選ばれて招待されたわけではなく、「勝手に」来て、「勝手に」悩んでいるのです。

集落の人々にとって、定住して家族を持って、過疎化を食い止めたいわけだから、青年がこの集落で自分の存在意義を見いだせなくても関係がないのです。

ということが、集落移住定住の真実だとしたら、とても辛いものです。

でも、青年は、真実はそうではないと知っているはずです。

だから、7年も一人で住んでいられるのです。

田舎の人が、集落の人が、お互いの損得だけを気にして生きていないことを。人との付き合い方が独特で感情表現が苦手でも悪気はないことを。自分が良いと思ったことを、相手にもしてしまう素直さを。集落の一員であることを背負って生活していることを。利害関係が生じて集落の和が乱れないように、個人の意見を主張しないことを。あえて触れないことが、相手の個を尊重していることを。

集落で上手く生活するためには、自分の感情をすり合わせつつ、自分の空間をつくることが大切なのかもしれません。やっぱりここで、「あるべき姿」でなくてはいけない、移住者の姿があるんだと感じます。

**ここまでは**

FM山形

(ラジオもいいもんだ。もう深夜…寝ます)

<移住者ならではの葛藤>

さて、ここからは僕の話です。

我ながら、深夜のドキュメンタリー番組について、よく2500字以上も書けるなと思います。

でも、これって興味あるからです。

興味がないものに対しては、自分にとって都合よく物事を解釈してしまうけども、興味があることに対しては、良い事も悪い事も知りたいし、ホントのところを知りたいって思うモンです。

たぶん、僕がこの町に来たのも、同じ理由があるからなのかもしれません。

見たことないものを見たい、知らないことを知りたい、行ったことがないところに行きたいと…。

いつも、自分をインスパイアするものを求めているのかもしれません。

その中のひとつが「田舎の人間関係」であることは間違いありません。

山形に来るまでの27年間、人間関係とは?コミュニケーションとは?と、それなりに築いてきたはずなのに、この町に来たら何かが違う。「何かが違う」と思っているうちに深入りしすぎて、買い物をしていても、祭りに行っても(?)気になってしまうのでした。

ファミレスやカフェの窓ガラス越しに外を眺めると、犬の散歩をしていたり、高校生が下校途中だったりと。そんな、光景を見るたびに「地元の人はここで暮らすのが、どういうことかって知っているんだろうなあ」と思い、謎の疎外感に苛まれるのでした。

こんなことを書くと、近所の、ばあちゃん方が心配して「お父さん、お母さんが…」「都会の人がここで暮らすのは大変だ」となってしまうので、これきりですが(笑)僕はこのような状況はあって当然だと思っているので、だからこそ、何がどうなっているのか知りたいのです。

**ここまでは**

NHK FM

(休日に早起きしたのに、何もしないで夕方4時。ブログしかしてない今日という日に謝罪したい)

<ドキュメンタリーヌリ>

今回のブログで、なぜこんなにアツく語るのか…。

それは、ドキュメンタリー番組の内容が「わけわかる」からです。

ではここで、僕が3年間の歳月をかけて解明した見解をご紹介しましょう。

題して

「集落で暮らすことに関する一考察 ~移住者に何を思うか。その考えと精神世界~」

<状況1>

山形で活動開始した3年前の6月。

7日後は僕の誕生日だった。

町の人によれば「この町では誕生日の人が集落の人にご馳走することになっている」とのこと。

ホントかよ!?と思いながらも、当日は本当に飲み会がセッティングされた。

これはマジだと思った。その日は、何かしらおごる事があった。

そして夜、会場に行くと席だけ準備されていて、酒など何もなかった。

これはホントにマジだと思い、近くのコンビニで色々買ってきた。

会場に行けば、特に特別な態度もなく、ホントにこういう風習があるんだと思った。

雰囲気は間違いなく体育会系サークルの飲み会だった。

この町にいる限り、毎年、誕生日の時はどこかに逃亡しようと決意した。

飲み会が始まると、僕は完璧に都会人という立場だった(真実だからしょうがないが)

徐々に差し入れが増えていき、何がなんだかわからなくなった。

飲み会が終わり、みな「代行」と言い出した。

「代行」って何だかわからなかった。

自分は車を持っていなかったため、歩いて帰ることにした。

30分くらい歩くのは平気だったが、ノンアル組の色々な人が送っていくと言ってくれた。

今思えば、暗闇の田舎道を歩くことは難しい。

住所を言わなくても、誰々さん家の隣というだけで「わかった」というのがすごいと思った。

中には若い女性も送迎係りを名乗り出てくれて、家まで車で送ってもらうことは今までなかったため、僕は気があるんじゃないかと勘違いしてしまうこともあった。

こちらでは普通のことだと、その後、判明した。ガッカリ・ガリ男。

結局、誕生日の人がおごる風習が嘘だとわかったのは、その後、数日してからだった。

当日、その風習が嘘だと教えてくれる人はいなかった。

この徹底した態度はハンパなかった。

<状況1の結論>

移住者。特に都会からの場合、はじめて集落に入る時に色々と「試される」。

というより、からかわれる。

都会人。特に東京からの使者は、ここ、東北の置賜において「都会人」というイメージは確立されている。初対面の飲み会で、積極的に話しかけてくれる人はまずいない。こちらから色々と話すと相手が黙ってしまい、「やっぱり都会の人は違うな」という印象を与えてしまうので要注意。

地元の有名人や高校の同級生の話をされても、僕にはわからない。男同士だと下ネタで笑いをとろうと話しかけてくれるが、リアリティがありすぎて笑えなかった。都会の人がこの町に来る理由は「田舎の素朴な女子」が目当てだと言われて泣きそうになった。

<状況2>

「埼玉から来ましたヌリと言います。よろしくお願いします」

と言えば

「いくつだ?」「結婚は?」「彼女は?」「日本人か?」…。

とよく聞かれる。

中には「奥さんはいつ、こっちに来るのか?」

と妄想する人もいる。

誰だ?その人は?

このやりとりは、もはや挨拶レベル。

会話で話題になること、中でもダントツ1位は「結婚」だ。

なぜ、この町の人は「結婚」しているかどうかを聞いてくるのか?

僕はこの問題について結論を導くことに成功した。

<状況2の結論>

この地域一帯において男が結婚しているということには、単に結婚しているという意味ではない。

それは、その人のパーソナリティ、信頼度、責任感、将来性を知るためのバロメーターだと言える。

結婚相手がいるような協調性があるか?

人と上手くやっていけるか?

家族を守る責任感はあるか?

それに向けて努力できる将来性はあるか?など。

自分の好きなことを仕事にしたいという考えがいかにマイナーか。

家族を守るために責任を持って働くという、もはや本能的な男概論が、結婚しているか聞いてくる真意だと思う。

しかし、ひとつ問題があるとしたら、何でもまず結婚と言うが、この考えによれば無職の人でも結婚できてしまうことだ。

いずれにせよ、集落には見込みある男に来てもらいたいのだろう。

しかし、もう一つの理由がある。

それは、多くの人が気にかけてくれたということだ。

話しかけてくれる人々の多くが自分と同じ30前後の子供がいて、すでに家庭を持っている人が多いため、はるばる山形の田園地帯に都会から来たフラフラしている若造を心配してくれたのだ。

みなさん、僕にはちゃんと伝わっています。

「ご心配なく」と言いたいのですが、自分の将来性のなさが心配なので、興味のある方は心配していただけると助かります。

**ここまでは**

DIVE TO BLUE by L’Arc~en~Ciel

(懐かしい。そして、最近では海外でも人気があるとのこと。今聴くと、想像していたよりシンプルなmixだった。)

<まとめ>

ブログなのに長文になってしまいました。

もうすでに、途中で読むのをやめた人も多いはずです。

しかーし、そんなことはいいのです。

人の考えを知るというのは体力が必要な作業だし、文章を読むのは疲れるものです。

一番のポイントは、僕が限界集落ドキュメンタリーに反応した事です。

「限界集落?農業?へ~都会からわざわざ。」

「変わった人もいるもんだねえ~」

と流してしまったら、今の僕はないはずです。

そして、文も書けないし、何も思わないでしょう。

人というのは、みんな理由があって何かしているので、みんな違うはずです。

その違いに興味がないと、誰と話しても、どこへいっても何も学べないと思います。

僕がこの町に来て、人や町や考え方や風習に興味を持つのは、僕の価値観だけで判断したくないからです。要は決めつけたくないからです。

「あの人はこういう人。この町はこういうところ」何てことは、その人と一生一緒にいても、一生同じ町に暮らしてもわからないものです。

人は時折、違う一面を見せるし、町で起こった出来事一つで印象も変わるものです。

ある意味、だから僕は興味があり、魅力を感じます。

自分の感性というのは、外から見て、聞いて、学んだ体験がもとになって、自分のそれまでの価値観とすり合わせて磨いていくものだから、この町に来てからの3年間はアンテナ伸ばして生活してきたつもりです。

最後に一言。

ブログって、自分のことしか書かなくなりますね(笑)

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

では、次回、最終回ということで。

バイチャ!!

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